旅って一体なんだろう?
現実逃避が捗り過ぎる
いろいろほっぽりだして旅に出たいと最近になってよく思うんだよね。
仕事と家庭でいろいろと、いっぱいいっぱいでストレスばっかりだし、借金は膨らんで首がまわらない状態の少し手前だし、かといってメインの収入のに時間と体力が取られすぎて副業とかやれる余裕もないし。
で、もう人生のゴールに突入するか、失踪するか、みたいなことを鬱々と仕事中に考えてばかりなんだけど、だったら失踪と大して変わらんが、もう全部放り出して旅に出てしまう方が健全なんじゃないかなとか、勘違いも甚だしいとはわかっているけど思ってしまうんだよね。
「旅に出る」ってどんなこと?
で、とりあえず自分にとって旅ってなんだろうって考えてみると、意外なことにあまり具体的にこうだってイメージか湧かないんだ。
一つ目の旅
自分が旅をしたなって覚えてるのは、一つは神津島まで当時住んでいた愛知県から出かけたこと。
その日の仕事が終わってすぐに職場を出て、最寄駅のコインロッカーに入れておいた旅の荷物を持って新幹線に飛び乗り新横浜まで移動して、なんやかんやウロウロして横浜大桟橋から乗船。
船の中で一泊して昼頃に神津島到着。
一旦宿に荷物を置いて島を散策したり郷土資料館の方にお話を聞いたりして夕方には前浜という場所で夕陽を見た。
水平線に帰る夕陽を見ていると「あー、遠いところまで来ちまったなぁ」って何とも言えない途方もない気持ちになったのを今でも時々思い出して、あの夕陽を再び見たいのにその場に辿り着くことのできないもどかしさに、心を苛まれたりするわけだ。
二つ目の旅
あとは、コロナ禍のどさくさに紛れて愛知県から青森の龍飛崎まで長いドライブしたことだろうか。
コロナ禍で、もうどうにもならなくて、ウダウダしていたら「軽井沢シンドローム」にちょっとだけ出ていた龍飛崎のことを思い出して「どうにもならないんだったら、無理して行ってみようかな」と妻を強引に連れ出して、ひたすら車で走って行ったわけだ。
途中で戸来村のキリストの墓を見たり、八戸のちょっとした出来事のあった跡地みたいなところによって、昔からの知り合いに挨拶して(ネット越しの知り合いで初対面だった)、夕食をご馳走になったりしたて、その翌日に龍飛崎に到着した。
海の先に少しだけ見える北海道を眺めているうちに、また「遠いところまで来てしまったもんだ」とこちらも何とも言えない途方もない気持ちになったのをかなり強く覚えてる。
共通する旅のイメージは?
二つのことを思い出すと、僕にとって旅とは、何とも言えない途方もない気持ちになるもののようだ。
この気持ちをまた味わうことはずーっと先のことだろうけど、いつかまたどこかの果てを望みながら「遠いところまで来てしまったなぁ」と何とも言えない途方もない気持ちを味わってみたいなぁ。
思い出したっ!
と、ここまで書いて「確か『よりもい』で似たような名言あったよなぁ」って調べたら確かにあった。
帰れないと思うから、遠さを感じるのかもしれないね。
そこにたどり着いて、その距離を実感することが、僕にとっての旅なのかもしれない。
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