コラム:あしながおじさんの話(エディプスの情景)
経営者とエンジニアの属性をもつ私が、精神分析を独学で学ぶ中で思い出した実体験に関して書いています。
私には進路に悩んだときに相談してきた人がいる。ここではAさんとしよう。Aさんは私の親の会社の社長で、大学に入るときの大学選びと就職するときの会社選びの時にアドバイスをもらった。
Aさんは学生時代に家庭教師をしていたそうで、大学受験に知見があったし、私が大学4年の時は、退職されて東京でどこかの会社の相談役をされていた。
彼の言葉には親や親類、学校の先生にはない独自の視点と重みがあって大変参考になった。私は大学選びの時も、就職先選びの時も、いくつかの候補リストと資料を持参し意見を聞いた。
父親のいない私は、彼に「父」の一部分を求めていたと思う。
そんなAさんのアドバイスを参考に私は大学を選び、東京の大学に通い、就職先を相談し大学4年の6月には就職先が決まった。さっそく報告したら、お祝いに食事をしよう、ということになった。
Aさんは広尾に住んでいて、広尾駅で待ち合わせて彼の行きつけの青山霊園近くの中華料理屋に行くことになった。
地下鉄で一駅分くらい歩いただろうか。その中華料理店の入り口は半地下になっていて、階段から降りると大きな木製のドアがあり、ドアを開けて入ると大きなオウムが止まり木に足を揃えこちらを見ていた。
オウムに気を取られていると、いつの間にか黒いシャツと黒いズボンのウエイターが中国語なまりの日本語でAさんと挨拶をしていた。私は二人の後を追うように席に案内された。
ウエイターは左足が悪いようで引きずっていた。杖などは使っていなかったので最近怪我でもしたのかな、と思ったが、Aさんも話題にしないのでそれが昔からの障害であることが伺えた。
私たちは、小ぶりの円卓に案内され、席に着いた。店内は暗く、絨毯の色のせいか足下は漆黒の中にあるようだった。
それまで町中華くらいしか体験したことがなかった私は、その店の雰囲気に圧倒されていた。「中華を食べに行こう」と言われたので気軽な感じで来てしまったのを少し後悔していた。
なにか食べられないものはあるか?とAさんに聞かれたので、特にないし好き嫌いもないと伝えた。ウエイターはうなずいてメニューを下げ、Aさんと少し言葉を交わしたが、内容はよくわからなかった。おそらく何かコース的なものをオーダーしたのだろう。
飲み物はAさんはビールを、私はジャスミンティーを注文した。
料理が来るまで、私は就職活動でエントリーした幾つかの会社のことや、そこで行われた試験や面接に関して話した。私は6社にエントリーして、最も行きたい会社には落ちて、二番目に希望する会社に内定をもらったので、そこに決めていた。
料理が出てきた。やはりコースになっていたが、前菜に生野菜のサラダが出てきた。「町中華」しか知らない私は面食らった。確かに中華っぽいが洗練されている事だけは分かった。どれもさっぱりしていておいしく、その頃の私の味覚からすると中華料理には分類できなかった。見た目で中華料理と分かったのは最後の天津飯くらいだった。
食事中は何を話したかは忘れてしまったが、入社後の心構え的な話や、社内で立ち回り方のようなことだったと思う。Aさんは早稲田出身で、何かと慶応OBを敵視した話をした。彼は最終的に子会社の社長で、親会社では学閥に苦労させられたようだ。そのことが、会社組織に入ったあとに待ち構える問題を意識させられた。学生と社会人のボーダーを超えた感触が、テーブル下の絨毯と一体化した漆黒と同期して体が緊張した。
いやなエディプス的な状況に遭遇すると時々この中華料理店の情景を思い出す。