コラム:溺れたことを思い出したら泳げるようになった話
高校生まで水泳が苦手だった。25mくらいしか泳げなかった気がする。小学校の少年団(サッカー)、中学(テニス)、高校(バトミントン)と部活動ではレギュラーメンバーとして公式試合に出ていたので運動神経は悪くなかったと思う。しかし、水泳だけはできなかった。水の中に入るとドキドキして焦ってしまう。練習不足だと思って、家の近くの温水プールで1人で特訓していたことを覚えている。
高校1年の夏に暑くてお風呂で水を浴びていたら、小さい頃に駅前のパチンコ屋の噴水に落ちて溺れたことをふと思い出した。デパートに母の買い物について行った私は、隣のパチンコ屋の店先の噴水に誤って落ちたのだ。
商店街の一角にあるパチンコ屋で、入り口に半円形の泉みたいな様相で噴水があった。水中に電飾があり派手な赤や青や黄色を機械的に変化をさせて水しぶきを上げていた。噴水は地面から1mくらい掘り下げられており、地面とそこを区切るのは高さ30センチくらいのブロックだった。つまり子供でもそのブロックに登って間近に水面を見ることができる。そうやって光の色が変わる水中を眺めていたら、不注意でその深さ1mほどの噴水の中に落ちた。
足が着かなかったので沈んでいき、水中からみた水面が光で白かったのを覚えている。通りかかったOLのお姉さんに助けてもらって、ことなきを得た。
その後、びしょびしょのまま泣きながら隣のデパートに入り店員に保護された。店内アナウンスなどがあったのだろう、程なくして母親が来てすぐに帰宅した。
3歳から16歳までその事を忘れていた。自分が泳げないことをあれほど悩んでいた時(小中学校の体育で泳げないと恥ずかしい)にどうしてこのことを思い出さなかったのだろうと思った。
溺れたことを思い出してから私は普通に泳げるようになり、現在ではゆっくりであれば飽きるまで泳いでいられる。むしろ好きなスポーツだ。
私が精神分析に惹かれるのは、この体験があるからだと思う。溺れて恐怖していた小さな頃の自分を思い出し受け入れるだけで、その悩みが消えた。劇的に。
この出来事は、私に二つのことを教えてくれる。一つは私の子供時代は水泳は体育の必修で避けられなかった。そのためこの問題は顕在化した。二つ目は抑圧されたものは無意識の中に隠れていて普段は知ることができない。それを探すのは、かなり大変だが出来ないことではない。
精神分析を知って、自己分析をする中で、今まで忘れていた(抑圧)ことを思い出して、それらが現在に多大な影響を及ぼしていることを実感している。そして、それを知るだけで悩みがかなり軽くなっている。
フロイトは精神分析のことを「複雑に絡まった不幸を、ありきたりの不幸にする」手段だと言った。不幸は幸福に変えられないけど、ありきたりの耐えられる不幸にはできる。
私が溺れたのは子供にはよくある事故だ。意識をして気をつければ防げる。しかし、私はそのことを「恐怖と恥ずかしさ」のために抑圧し忘れようとしていた結果、普段意識できなくなっていた。そのため無意識は緊急時(水に入るなど)にアラートを出して全力で避けようとしてた。
たぶん、これと同じ構造が私の生活の中には、まだ沢山ある。