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初・ポートフォリオレビュー体験記

韓国の写真家、キム・ジョンアさんのポートフォリオレビューに参加してきた。

ポートフォリオレビューとは
作品(ポートフォリオ)をレビュアー(写真家や写真評論家、ギャラリストなど)に見せ、直接、講評を受ける機会のこと。さまざまな写真祭や写真系ギャラリーなどで開催されており、塩竃フォトフェスティバル、ふげん社、アメリカのレビュー・サンタフェなどのポートフォリオレビューが有名。

文化の日の振替休日。午後3時。阿佐ヶ谷の住宅街にあるギャラリー冬青は一軒家がギャラリー化したような佇まいで、普段は入ることのない2階に案内された。

冬青社のギャラリスト野口さん、通訳さん、キムさん(全員女性)が、11月にしては蒸し暑い部屋でこぢんまりとテーブルの前に座っており、そこに持参したA4のプリント写真を30枚ほど並べた。

本来、ポートフォリオレビューというのは制限時間20分で20枚の写真を見せるというのがベーシックなルールのようだ。だが、私には初めてのことで、冬青社の案内にもとくに決まりは書かれていなかったので、30枚と過去につくったブック2冊で挑んだ。

まず、自分が紙に書いたステートメントが通訳の方によって韓国語に翻訳され、その読み上げを聞きながら写真を見ていただく。

数枚見られた段階で、キムさんが隣の野口さんにゆっくりと頷かれた。これは何を意味しているのか?まな板の上の鯉は、口をパクパクさせることしかできない。

「写真がパーソナルなことから出発することは最もよくあることです。ですが写真がひとたび作品として世に放たれたなら、もうあなたのものではなく一人歩きするものとして捉えなくてはなりません」

娘や妻、親を撮った写真に対して、第三者は関係性を知らずに鑑賞する、という話からレビューは始まった。

焦ったのは、「ステートメントに書かれている以外のことで、あなたが作品を通して伝えたいことはありますか?」と聞かれたこと。考えてみれば当然の問いにもかかわらず、私はステートメント以上の用意をしていなかった。

頭をフル回転させ、ゆっくりと言葉にするなかで、いかに自分が考えなしに写真を構成していたか、という後悔が頭をもたげた。

いや、正確には、考えはあるものの、それと目の前の写真が完全に呼応していないのではないか?という疑いと不安だ。背中に伝う汗は、暑さによるものではなくなった。

そして、人に見せることの意味はここにあるな、とも思った。

相手が日本語圏ではない方だからなおさらだ。違う言語、違う文化、でも似ている面もあるアジア、韓国の写真家には、私の写真はどう映るか。そのことを念頭に置きながら説明できるだけで、いくつもの反省が促される。

たどたどしい説明が通訳によってどこまで伝わったのか、キムさんはフムフムと頷きながら私の写真を3つのグループに分け、ひとつずつ説明してくれた。

「こっちのグループは、あなたが伝えたいことが最も現れ、第三者にも伝わる写真だと思います」

「とくにこの1枚は象徴的に表現がされている。ここから展示や写真集を構成する起点になり得えます」

「展示にするなら、細部がよく見えるだけの大きめのサイズが合うかと思います」

「次にまとめたグループは、あなたのテーマにそぐわないと感じた写真たちです。旅行中のスナップに見えたり、第三者には訴えるものが見えない、プライベートフォトに見えます」

「人の顔というものは、その人を知っていないとどう見ていいのか戸惑いを与えます。ただ、私が良いと思ったグループの中にもあなたの奥さんの写真がありました。あちらは無表情な瞳の中に、鑑賞者の心を映す普遍性が感じ取れます。なので、決して後ろ姿を撮ろう、などという話ではありません」

「中間に位置する写真がこれらです。写真集であれば、隣り合う写真次第で強くも弱くもなる写真たちといえます。展示であればサイズを変えて、繋いでいくときに検討できるかと思います。ただ、きっとあなたは同じ場面でもっと枚数を撮っているはずなので、それらの中により適した写真があるかもしれません」

「私から見れば、最初のグループは表現が定着された写真です。で、中間に位置する写真グループは、表現とドキュメンタリーフォトの間に見えます。どちらにでも構成できそうですし、アートの群れの中にうまくドキュメンタリーを挟み込むのも方法のひとつではあります」

まだ、開始から15分少々。なのに、こんなにも分類と分析できるのか!朝ドラよりも早い展開。

さらに驚かされたのは「旅行中のスナップに見える」と言われた写真がまさにそうだったからだった。図星なんですけど。キムさんは宜保愛子か。

結局、セレクトにまだ迷いがあることを見透かされた。自分の焦りや緊張も、そのことから来る自信の無さだったような気がしてきた。

最後に、「あなたの、家族を通じて社会を丁寧に見つめる視点はとても好きです。また見せてください」と言っていただき、それがお世辞ではないことを後にInstagramのReフォローで信じられるようになるのだが、ひとまず、予定よりも10分オーバーで人生初のポートフォリオレビューは終わった。

客観的な分類の甘さと、そこから構成するに足る枚数の少なさ。これに尽きる。そのことが課題として露わになっただけでも、受けて正解だった。

* * *

表現としての写真と、出来事を追ったドキュメンタリー写真と、プライベートフォト。私なりに言い換えれば、世界を知るための写真と、世界を伝えるための写真と、生活や記憶を残すための写真

有名人でも奇抜な人生を歩んでいるわけでもない私は、プライベートな生活を私写真と称して世に問う作品にはできそうもない。だが、数としては妻や娘の写真が圧倒的に多い。それゆえ「うまく織り交ぜたい」とアプローチしがちなのだが、実はとても難しいことなのかもしれない。人生と写真が直結した人に強い憧れはあるものの。

「混ぜちゃいけないのかー。そういう分類もたしかにあるよなー。でもどうにかして入れたいんだけどなー、どうすっべなぁ」

・・・・これが、ここ1週間の私の悶えだ。キムさんの言葉が絶対とは思っていないが、納得もしたので、客観的になりきれない自分の身悶えがすごい。作品として世に放つだけの「子離れ」ができていない。

写真家・畠山直哉さんが「プライベートとパーソナルは別物」というようなことを仰っていた。取材で、地元・気仙川を撮られた写真について「プライベートな写真」と記者に書かれたのを見て、「プライベートじゃなくてパーソナルな写真だよ」と言ったとか。

その区分けも今なら深く理解できる。プライベートな写真ではなく、パーソナルを起点にした写真に、一段上げたい。そう考えれば少し前向きに検証ができそうだ。

ポートフォリオレビュー・デビューがキム・ジョンアさんで良かった。考えを巡らせつつ、撮ることを止めないでおこう。その中から、自分で分類することも。ありがとうございました。

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