写真よふたたび (高校〜浪人篇)
1996年、四国の片田舎にて。
16歳だった。ミノルタの一眼レフを父親から譲ってもらった。きっかけはその1年前、中学時代に変わり者の友人に誘われて入った生物部。そこで魚の解剖をすることから話は始まる。
顧問が放置し、下級生もいない生物部。毎週、友人Dか自分が魚屋で魚を1匹仕入れて、内蔵をきれいに仕分けるだけのシュールな放課後。解剖するのはDで、僕は隣でそれを割り箸ペンと墨汁で絵にする係だった。杉田玄白ごっこ。いま考えたらずいぶん根暗だなーと思うが、中2病という言葉もなかったので存分にこじらせることができた。
高校進学と同時にその同級生とは別の学校になり、たまたま自分の担任が美術部の先生だったことから美術部に入った。美術部では先輩たちが石膏像を前にデッサンをしたり、花瓶の花を油絵で描いていたりする。先生に「なにしてもいいよ」と言われた僕は魚の解剖を思い出し、セルフ解剖してそれを絵にする活動を再開した。
ところが美術部で本腰入れて描こうとすると「続きは翌日に」ということになり、魚は腐ってしまう。これじゃ満足に描ききれない。そこで、解剖したらまず内臓をきれいに並べて写真に撮ろうと考えた。
そこで父に家で使っていないカメラをちょうだいとねだったのが写真とカメラとの出会いだった。
美術部でカメラを使う人間は珍しく、新入生のなかでは唯一の男子部員だったこともあり、先輩方にかわいがってもらった。僕の撮影対象も死んだ魚から生きている人たちにシフトしていった。
折しも当時はHIROMIXが社会現象となっていた時代。NHKで特集番組を見てコニカのビッグミニを知り、高2の修学旅行で東京に行ったときに新宿のさくらやでビッグミニFを買った。そこから田舎の本屋でアラーキーや森山大道を知り、とにかく量を撮るようになった。瀬戸内海に差し込む光はまぶしく、何を撮るのも夢中だった。
もともと浪人する気でいた美大受験に“晴れて”失敗し、当時いちばん撮っていた美術部のT先輩を追うように東京の美術予備校へ。そこで自己紹介のときに自分の撮りためていた写真を見せ、作品化はしていなかったものの、形にできるほど貯まっていることを自覚。初めて写真集というものを作った。
浪人生の間も一眼レフを買い換えたりローライ35をカメラ中古市で買ったりして、AGFAやKodakのポートラなんかで友人をバシャバシャ撮り続ける日々。
大学は希望する武蔵美の映像学科に入った。T先輩も三浪して同級生となった。映像というけど自分はドラマや映画の制作実習よりは写真に没頭していた。
・・・と、ここから先の話はまた別の機会で。
いま、自分の写真史を時系列にまとめている。上記に書いたことなどを思い出しながら16歳から42歳の現在までを年表にしている真っ最中である。
なぜそんなことをしているかというと、この9月から写真家の鈴木心さんが主催する「写真がうまくなっちゃうワークショップ」の3期生として参加したことがきっかけ。
自分と同い年である心さんとの出会いは大学生の頃にさかのぼる。自前のWebサイトで作品を発表する心さんを一方的にウォッチしていた。僕もサイトを作って毎日写真をアップしていたから、見知らぬ同級生の動向が気になった。
あれから20年近く経ち、同い年のスター写真家に師事することとなり、改めて自分は写真とどのように付き合ってきたのかを振り返ってみようと考えたのだった。30代で一切撮らなくなったブランク期も含めて。
90年代後半に彗星のごとく現れたHIROMIX、「私写真」の概念とともに写真を日常化・眼化(メカ)する喜びを教えてくれた荒木経惟、2000年代の大学の写真教育(暗室作業)、銀塩VSデジタル、小林のりお先生との出会い、デジタル写真というジャンル・・・
時代とともに移り変わる写真メディアの姿を、一介の写真学生として目撃・経験してきた。そのピースを記憶の底から掘り起こし、並べていく。
高校〜浪人時代はとくに被写体に恵まれた。地元は山と海がつくる光に包まれ、上京後は立川の猥雑な空気が刺激的だった。上手くなるとか、カメラが何だとかレンズはどれだとかは関係なくて、ただ撮る。人生で最もピュアに写真と向き合っていた、最も無知な時間だった。
それをノスタルジックに懐かしむと同時に、写真行為そのものは今の方がずっと自覚的で楽しい。六十の手習いと言うが、42のワークショップは飛び込んで正解だった。
いずれ大学時代〜社会人初期の30代前半までの自分写真史も文章化してみよう。今に繋がる何かを探すことが、ワークショップの最終課題「写真集を作る」に直結する、はず。
これはワークショップのシャッタースピードの課題で撮ったもののアザーカット。こういう機会でもないと絶対に撮らない謎のシチュエーション。
つづきは、また。
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