映画の中の彼は言った。「子育てって、免罪符じゃないですか」
映画の脇役が発する何気ないひと言にハッとすることがある。
『永い言い訳』
主人公は、妻の死にも泣けなかった浮気者の小説家。
文化人枠でテレビにも出る作家・津村啓、本名・衣笠幸夫(本木雅弘)は、妻の事故死により「遺族」になる。妻が死んだ瞬間、彼は不倫の真っ最中だった。
もともと冷めきった夫婦関係だったために哀しみに浸ることもない津村。動じず、いかにも作家らしい“哀悼の言葉”を呼吸するかのように吐き出し、世間の同情を集め、エゴサーチに余念がない。
そんな彼が、おなじ遺族の大宮一家と関わるうちに、これまで死んでいた人間らしい感情を見つめ、再生していく物語。
大宮一家には受験を控える小学6年の男の子と保育園児の女の子がいる。亡くなった母親の代わりとして、かいがいしく家事に育児に没頭する幸夫。打算的だった男の変わりぶり、というより変わったそぶりを見て、マネージャー・岸本(池松壮亮)が言い放つ。
「書くってことですか?・・・取材ですか、それは作品の」
批判スレスレの、自分の行いを観察されていることを察知した幸夫はすかさず反応する。母親を亡くして立ちゆかなくなった家族がいること、その手助けをしていることを切々と訴える。小説家らしく。だが岸本は眉一つ動かさずタバコに火をつける。
幸夫「僕らしくないですか。子どもの面倒なんかみて」
岸本「ぜんぜんそんなことないですよ。だって先生、それは逃避でしょう?」
岸本の吐くタバコの煙が、重苦しい空気に輪郭を与える。池松壮亮の徹底的に無感情な声が怖い。さらに追い打ちのひと言。
「子育てって、免罪符じゃないですか。男にとって」
そう言って岸本はポケットからスマートフォンを取り出し、幸夫に見せる。ふたりの女の子が岸本とじゃれている待受画面。それは冷め切ったマネージャーではなく、父親の姿だった。
「4歳と、こっちが去年出てきたやつ」
睨みつけるように画面を見る幸夫に、構わず続ける。
「みーんな帳消しにされてく気がしますもん。自分がサイテーでバカで屑だってこともぜんぶ忘れて」
「・・・何が言いたいの?僕に何をさせたいわけ?」
「先生、奥さん亡くなってから、ちゃんと泣きましたか?一度でも」
* * *
2016年の公開当時、僕には子どももいなかった。だが、この「子育てって免罪符じゃないですか」というセリフが妙に印象に残った。
2年後、我が家に子どもができたとき、あのセリフを思い出す夜が何度もあった。僕にとって育児は逃避でもなんでもない、ただひたすらに育児である。自分は本物の父親である。そう言い切れるほど人間ができていない。
けれど、自分がミルクをあげなければ、自分が寝返りを手伝ってあげなければ、自分があやしてあげなければ、この子は死ぬのだ。子どもは待たない。
この子にとっては僕は父親なのだ。
でも、だからこそ感じる。子育ては免罪符なのだと。
本当に、みーんな帳消しにされてく気がするのだ。
自分がサイテーでバカで屑だってこともぜんぶ忘れることができるのだ。
幸夫ほどの屑じゃないにしても。
いつからか、幸夫は自分のスマホの壁紙を大宮一家との海水浴の写真に設定していた。
彼は最後まで大宮家の人間になれるわけではないけれど、サイテーでバカで屑な自分をぜーんぶ忘れて帳消しにするためから始まった関わりが、いつしか本物の心の通い合いになっていく。
さまざまな「言い訳」が、続けていくうちに、言い訳を超えて生きる理由になっていく。言い訳だったことを続けていくことが生きることに繋がっていく。
それは、言い訳を、自分をちゃんと見つめることをできるかどうかにかかっている気がする。岸本の毒矢のようなひと言は、言い訳で固めていた幸夫を揺るがすにじゅうぶんだった。
なんという丁寧な映画なんだろう。
脇役が放つ、刺さって抜けない言葉。
それは映画を見るときの自分の状態でおおいに変化するということ。昔「面白くなかった」映画が、今見返すとぶっ刺さることがあるということ。その再会を祝したい。
『永い言い訳』、折に触れて見返したい映画だ。