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生まれたてに戻れたのなら、僕たちは幸せになれる

これから、たいそうなタイトルのもとたいそうな物言いをするのだが、仮説として聞いて欲しい。

まず人間は理性が発達するまでは自他の境界がわからない。「お母さんは自分ではない」「自分とあのメガネは別のものだ」「どうやら自分という領域があるっぽい」と気づいたとき、初めて主体的な経験すなわち記憶の蓄積が始まり、自我や理性が生まれる。
そこに気づいた時、そこを「物心ついた」というのではないか。そしてそこから、自分は世界と切り離されていることを知り、孤独という概念が生まれる。
そこに気づくまでは、世界と自分は一体化していると思っている。正確に言えば、「一体化している」という認識すらない。同じ領域であると思っている。

そして、理性が発達し物心ついてからの人間の営みはどうやら自分の領域を拡張して、世界と繋がろうとすることばかりだ。恋人とセックスするのも一体化して自己を拡張したいからだし、野球をするのもバットで自己の身体領域を拡張して、決められたルールのある野球という世界で同じ感覚を共有し、野球という世界に一体化したいからだ。ゲームのコミュニティなどもそうだ。近年話題に上ることの多い承認欲求も当てはまる。何についても言えそうだ。
私たちは、生まれたての状態に戻りたがっている。

ここまでが、以前述べたところだ。


ここからが本題なのだが、私たちの根源的な欲求は睡眠欲、食欲、性欲の三大欲求とされている。
どれも動物的本能に基づいていて、生命を維持し繋いでいくためには不可欠である。
私は、実はこの三大欲求はもっと大きな最上位の欲求を要素分解したものに過ぎないのではないかと考えている。そしてその三大欲求より根源的で人間の核心にある欲求は「一体化欲」だ。

先ほど述べた、自己の領域を拡張して、他者や世界と一体化したいという欲は、人間の行動原理の根幹ではないか。理性によって世界と切り離されたことで孤独を知った人間が、生まれたての状態に戻りたがっているに過ぎないのではないか。
性欲は言わずもがな他者と一体化するものである。食欲もまた世界に存在する食材などを摂取して自分に取り込むこと、つまり世界との繋がりのもと生命活動を維持すること、これも一体化である。
そして睡眠は、孤独から強制的に切断される行為である。夢の中に沈むことで、孤独を感じる世界から毎日逃げることができ、夢の世界と一体化する。夢が非現実的で理性的なものでないから、逃げ場になる(明晰夢や悪夢といった逃げ場にならないこともあるようだが)。

こうしたことから三大欲求は、「一体化欲」を分解したものでしかないのではないかと考える。
「一体化欲」が人間の真の根源的欲求なのではないか。
そして幸福は、この「一体化欲」がどれだけ満たされているかということではないのか

だとすると、理性が強い、あるいは自我が強い人というのは、「自分と他者が違う」「自分と世界は切り離されている」という意識が強いということで、孤独を感じやすく幸せを感じにくい。
逆に、あまり考える癖のない人、思考する習慣がなく理性の弱い人は、世界と自分との分断意識が弱い。孤独を感じにくく、簡単に一体化欲が満たされるために幸せだと感じやすい。
あくまで幸福になりやすいわけではなく、幸福を感じやすいということだ。


当然、すべての人間がこの一体化の欲求に服従して生きているわけではないだろう。この人は孤独だけど幸せそうだった、なんてこともあるかもしれない。
しかし欲求とはそういうものであるとも言える。
性欲や睡眠欲を見れば、同じ欲求にもかかわらずそれを求める程度は人それぞれだ。欲求に個人差はつきものである。


ここまで仮説を述べてみて、少なくともこれは完璧な議論ではなかったかもしれない。
しかし、一体化欲が人間の真の根源であるかもしれない可能性は否定しきれない。
残酷なことに、幸せを感じることができるかどうかは、理性の強度で決まってしまうのかもしれない。

そして私たちが、人間を人間たらしめるために動物的な本能を克服することは、幸福を犠牲にすることなのかもしれない。

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