石井隆さんのこと
タコシェでの原画展
映画一筋の石井監督に、(ご自身の映画とは関係なしに)再び絵筆をとっていただけるのだろうか?
ダメ元で展示の打診してみると、真剣にご検討いただき、映画の企画が動いてない期間ならとお引き受けいただけました。
石井さんは、”自分の絵でいいのか”とか、”見にくる人がいるのだろうか”など、後ろ向きのことばかり口にしていましたが、ちゃんと石井ワールドのヒロイン”名美"を描いてくださり、ふたを開けてみれば劇画家・石井隆を長らく待ち望んでいたファンたちにたくさんいらしていただき、絵は次々と売れてゆきました。少し前向きになった石井さんは、さらに描き、描くほどに筆がのって、名美さんはどんどんのびやかに美しくなってゆきました。絵師・石井隆の健在を実感し、展示をお願いしてよかった!と手応えを感じました。
展示中は、石井組の俳優さんがタコシェ に場違いとも思えるダンディな出で立ちで来店されたり、知り合いのママさんがとんでもなく大きな蘭の鉢を持ってお祝いに駆けつけたりもされました。
ちょっと困ったことは、石井さんが近所にお住まいのため、「会いたいというお客さんがみえたら、いつでも呼んでください」と言って、自宅に待機してらして、実際に何度か呼び出したときでした。近くといっても、身支度をして店に到着するまでに2,30分かかるので、お客さんは、監督を呼びつけてしまった恐縮した気持ちと緊張の待ち時間と実際に来ていただいた感激とで、みなドギマギしてしまうのでした。
展示の始まりと終わりには、石井さんが近くのお店を予約して一席設けてくださり、名美そっくりで笑顔が印象的な奥さん、千草さんともご一緒させていただきました。
名美の絵
最愛の千草さんが亡くなった時、石井さんからお電話をいただき、"お葬式で飾りたいのだけど、ひょっとして展示の絵が残っていたりしないですか"と尋ねられました。完売してしまい残念ながら残っていなかったのですが、石井さんが展示が終わる直前に届けてくださった絵が最高の出来なのに、お客様のお目にかける期間が短かすぎて残ってしまったのを、私が密かに買って持っていたので、「私物ですが一枚、持って行けます」と答えました。
当日、私は絵の展示や雑用係としてお手伝いするつもりで、喪服ではなく黒の上下で近所の斎場に向かいました。「名美Returns」などを出版したワイズ出版の岡田社長は、額装した絵を見て「え、私物? いいの? 燃やされちゃうよ!?」と私に囁きましたが、「そうなったら、それまでです」と答えて、絵を会場に設置しました。
その後で、岡田さんに「私はどこにいればいいでしょうか?」と尋ねると「とりあえず、ここに座っていて」と言われ、会場の後方の長椅子の隅っこに腰掛けると、すぐに葬儀開始のアナウンスが流れ、真後ろの扉が開くや、石井組の役者さんたちを含む大勢の参列者が列をなしているのが見えました。その瞬間、私は”大道具さん”スタイルで親族席に座って葬儀に列席している事に気づき、全身の血が逆流し、滝のように汗が流れました。しかし、いきなり立ち上がって、その場から走り去るわけにはゆきません。
目の前には相米慎二監督、石井さんと親族の皆さん…できるだけ体を小さくして項垂れ、葬儀の流れを中断しないよう、親族の方に続いて祭壇の前に進み千草さんにお礼とお別れのご挨拶をして席に戻ると、外の列が動きだし、参列者の皆さんが順番に中に入って来ました。そのタイミングで、岡田さんがやって来て、私を呼び出すていで連れ出し、部屋の外で謝り倒してくれました。
結局、絵は石井さんの希望で、棺に入れられ、千草さんとともに旅立ちました。
後日、私の絵を勝手に燃やしてしまったお詫びか、時々、ご連絡をいただき、石井さんが食事をとる行きつけの居酒屋さんでご飯をご馳走していただきました。食事中も、後ろ向き発言に加えて、奥さんの話をしながらしんみりしたり、急に名前を叫んだり、拗ねたり、照れ笑いしたりと、石井節は健在でした。
早稲田大学に通い、やがて劇画や映画で都会を描いた石井さんが、名美のような千草さんと東中野に暮らしてらしたことは、70年代から現在、新宿界隈のあちらこちら、劇画や映画と現実世界を、ひとつづきのものと感じさせてくれました。中央線の窓から見えるマンションやアパートの灯りのどこかに、石井さんが描くドラマがあるのかもしれない…と。
しかし、千草さんも、あの時、あの場にいた相米監督も、岡田さんも、そして石井さんまで、あちらに行ってしまわれました。
出会える場所はもう本や映画の中だけになってしまっただなんて、寂しすぎますよ。