すかし1

第7話 下手人

 我こそが「月夜の使者」だと言って、壺振り師の次郎吉が北町の奉行所に名乗り出てきたのは、それから10日後のことだった。
「壺振り師……」
 北町の鬼奉行が、男の職業を呟いて、引っ立てられてきた男の顔をまじまじと見つめる。なるほど、確かに気が強く、ケンカっぱやそうな顔をしている。
「刀はどこにやった?」
「神田の川に放り投げた」

 男がそう言うので、如月の寒い冬の中、南北の同心、岡っ引きが総力を挙げて神田の川をさらえる。
 小刀や鎌、鉈、鋤など、おそらくゴロツキ同士の小競り合いで使われたドスのようなものすぐに見つかったが、肝心の2尺5寸の太刀など、一向に見つからない。

「次郎吉よ。お前、壺振り師なら自分の名前くらいは漢字で書けるだろう」
 鬼奉行が、ヘンなことを言い出す。
「……は? ええ、そりゃあ、書けますが。それが、なにか?」
「書いてみろ」
 鬼奉行がそう言うので、次郎吉は半紙に筆で「次郎吉」と、それなりに読める字で書き付けた。
「……ふうん……? よほど良い寺子屋で、手習いしたと見える」
 北町の奉行を指し、「あれはホンモノの鬼だ」とゴロツキ仲間が言っていたが、その鬼奉行はなかなか優しい声で次郎吉の字のうまさを褒める。次郎吉はすっかり気をよくして後ろ頭をひっかいたが、奉行はそんな次郎吉の仕草をじっと見つめた。
「俺は、これから商家の寄り合いの報告書を読まねばならん。詮議は与力の月岡に任せるが……まあ、飯でも先に食え」
 そう言って鬼奉行は立ち上がるが、与力の月岡に何事かを囁いてから、詮議の部屋を出て行く。
「鬼奉行と聞いていやしたが、お優しいお奉行様で……」
 目の前に並べられていく煮干しに漬け物、汁物に麦飯……普段でもなかなか食べられないごちそうを見て、次郎吉が喉を鳴らす。
「いいから、黙って喰え」
 次郎吉の詮議を申しつけられた与力の月岡が、次郎吉に食事を勧めた。
「へえ、それじゃあ、遠慮なく」
 次郎吉が箸をあげる。
 月岡は次郎吉が味噌汁椀を持ち上げたのを見届けると、「用が出来た」と立ち上がり、部屋を辞した。

 隣の部屋では、鬼奉行が、先日起きた事件の報告書を読んでいる。月岡はその隣に座り込むと、「お奉行様のおっしゃるとおり、次郎吉は右利きでございます」と、告げた。
「……左様か……」
 鬼奉行が、パチン、パチンと扇子を鳴らしながら、月岡の顔を見つめる。「そなたの見立ては?」
「次郎吉は人を殺めたことはございません」
 与力になって二十年を数える月岡が、自信たっぷりにお奉行様にそう、進言する。
「奇遇だな。実は、俺もそう思う」
 パチン、パチンと、お奉行様が扇子を鳴らす音がどんどん早くなる。お奉行様の心の焦りが見て取れて、月岡はただ、次の言葉を待った。
「お奉行。相模屋の亭主が寄り合いの報告書を持って、参っておりますが」
 廊下から、同心の声がする。
「相模屋……ああ。若様か。お入りいただけ」
 相模屋の若様が最近また、阿津にちょっかいをかけ始めたのを知っているお奉行様は、少しいじめてからかってやろう……と言う気持ちで、相模屋の若様を迎え入れた。
 大名の息子と旗本のお奉行様。どちらが上座かと月岡は悩んだが、鬼奉行は上座をどかず、若様も特に気にせず、下座に座った。
「若君におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
「挨拶など、いいじゃないですかお奉行様。それより、お奉行様の大好きな大福餅を、家内から言付かって参りましたよ」
 若様がそう言って、鬼奉行に竹の皮で包んだ大福餅と、先月の寄り合いの報告書を差し出す。
「ほう。さすが相模屋の女将。おい、月岡。阿津に申しつけて、熱い茶を持たせよ。ああ、若様相手だ。玉露にせいと、申しつけておけ」
「そんな、お奉行様。お気遣いはご無用ですよぉ」
 そうはいいながらも、大福餅をお相伴する気満々と見えて、若様は腰を上げようともしない。
 月岡が部屋を出て行くより前に、気を利かせた阿津が玉露を持って部屋に入ってきた。
「阿津さん!」
 阿津の顔を見て、若様の顔が輝く。だが、弟を亡くしたばかりだという阿津を気遣い、若様は神妙な表情で阿津に語りかけた。
「弟さんを亡くされたんだってね、可哀想に……」
「……ええ。町の者は、『月夜の使者』の仕業だとか申しますのよ」
「何を言ってるんです。月夜の使者は正義の味方。阿津さんの弟さんみたいな、可愛い坊ちゃんを殺めるわけはないじゃないですか!」
 そこで阿津とお奉行様、そして月岡は、若様が何か勘違いしていることに気づいた。
「……亡くなりましたのは、上の弟ですの」
「え?」
 若様の顔がこわばるのを……阿津は見逃したが、月岡は見逃さなかった。
「14になります、忠慧が亡くなりましたの」
「……なんですって??」
「若様。御安心召されよ。『月夜の使者』は先ほど、我が奉行所にて引っ捕らえましてございます」
 月岡の言葉に、はっと我に返った若様が「それは安心」と、ほっと胸をなで下ろす。
「さすがお奉行所。仕事が早い」
 そんなおべんちゃらを言いながら左手で大福餅を口に運ぶ若様の仕草を……月岡は、じっと見ていた。

 

 その日の夕刻……相模屋の倉の前を、小さな影が横切る。
 影は、辺りを見回すとカギを開け、中に入っていった。
「母上」
 若様が、その影に声をかける。
「ひ!」
 小さく叫んで、影が振り返った。
「刀がないと思ったら、やはり母上でございましたか……さ。その刀、返していただこう」
 若様が、母が抱えた太刀に手を伸ばす。
「いかぬ!」
「母上!」
「そなたに渡すわけには、いかぬ!」
 母の瞳孔は見開き、肩は小さく震えている。
「いかぬいかぬ。立ち去れ、この太刀はそなたに持たせるわけにはいかぬ」
 母は大きく首を振るのだが、力で息子に叶うわけない。あっさりと太刀を奪われ、その場にくずおれた。
「月夜の使者……とは、そなたなのであろう?」
「……そうですよ?」

 あっさりと、若様は認めた。
「いいじゃないですか。どうせ奉行所に捕まれば、死罪か流罪の極悪人。あたしに斬られても、そう変わりは無いでしょう」
「なぜ、今まで母に申さなんだ?」
「なぜって……聞かれなかったからですよ」
 これもまた、若様はあっさりと言い放つ。
「それよりも母上……奉行所に名乗り出た下手人……母上がご用意なさったのですか?」
「いかにも」
 母は静かに頷いた。
「これで、『月夜の使者』は奉行所に召し出されたのだ。もう、江戸の町に出ることはあるまい」
「……酷いなあ……数ヶ月に一度の楽しみだったのに……」
「義太郎のためと心得よ。そなたは心を入れ替え、相模屋の主として、義太郎に跡を引き継がせるのだ。藤吉郎などに、跡目を継がせてはならぬ。お信乃が死んでしまえば、藤吉郎はきっと、そなたとわらわをこの相模屋から追い出す!」
 お信乃より10も年上のお円が、お信乃が亡くなった後の自分の身の振り方を心配することに、若様は呆れた。
「わかりましたよ、母上。では、この刀は、この倉にしまっておきましょう。お信乃には刀に飽きたとでも、言っておきます」
 そんなことを言ってもまだ信じられぬと言う母の目の前で、若様は太刀を腰紐でぐるぐる巻きにして見せた。
「さ。これで……信じられるでしょう?」
 そして、すぐには届かない高い棚の上に太刀を置く。
「母上。参りますよ?」
 若様はお円を促して、倉の外に出……そして、カギをかけた。


 かくして、江戸の町に「月夜の使者」がでることは、もう……なくなった。

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