For you
その人のピアノの最初の一音を、聴き逃すまいとボリュームを上げた。はじまりのその音は、これ以上ありえないような自然そのもので、それを聴いた時、その音を現したいと思う私の言葉は風にふかれ笑われたに違いなかった。今まで幾度この曲を聴いてきただろう。ある時は学校の体育館で、小さなライブハウスで、大きなホールで、数えきれないぐらい今みたいに走る車の中で。でも今までのどの演奏ともまた違って、強く深く濃密な音の波が寄せて返ってを繰り返し、私はその海に漂っていた。海の底の砂地を転がる石のようなベースが波を支えている。タップとパーカッションが遠く沖の方から大きな渦を引き連れて海に光と命を吹きこんでいる。その音海から立ち昇る水は集まり白い柱の塊となり、瀧のようなそれは巨大な白龍となり天を目ざす、なんという調和、狂乱、静寂。荒れた海の眩い光の中の悲しみ。後から後から光が追いかけて来ると、勝手に涙があふれる。もうこれだ、運転に集中しないといけないのに。岬のカーブを曲がって道路脇に車を止めた。いいの、こんなに惜しげもなく、あいが大きすぎるよと、なんてこったと思った。波の上を漂っていたはずなのに、今は鳥になってその海原を渡っている。私に翼を与え、「さあ、飛べ」と言っている。くそ~、ああもう何度聴いても此処で泣くんだろうな。