意味論上の不一致
勝手に定義づけ
どんな会議や討論の場でも、お題や資料を基に行われます。
「解釈が違う」だの「拡大解釈だ」だの、都合のいいように自己の意見を取り込みたいもの。
「そもそも、こんな資料で・・・」って思うことは多々あります。
ま、あやふやな資料にしておけば、資料作成の責任者の逃げ道は作っておけますしね。
所詮、会議は責任を共有するための集まりなので。
意見や提案など、発言しようがしまいが、「その集まり」にいただけで、責任度合は変わらない。
「会議に参加したよね?だったら何かあった時は、あなたにも責任あるんだよ。」と暗黙の了解。
一人で計画して、一人で実行して、成果を上げれなかったら、一人で責任取れよって思うけど、そうはいかないのが会社組織。
『最後の責任だけは共有してねっていう集まりが会議』。
回るものを回る
犬が台の上で座っていて、飼い主は犬と向かい合っています。飼い主が犬の方を見らがら、台のまわりを回わるとき、犬は飼い主に顔を向けたまま、台の上で、体を回わします。常に顔は向かい合ったままです。
飼い主が台のまわりを一周したとき、飼い主は犬のまわりも一周したことになるのでしょうか
「まわりを一周する」という、言葉の意味を正確に定めない限り、この問題に答えられるはずがないのです。
日常使われている言葉の中には、正確に意味が定義されていないものが多くあります。この問題は、純粋に意味論上の不一致なだけなのです。
会議の場合では、そんなことお構いなしに進行していきます。
案の定、明後日同士の議論で、無駄な時間を浪費します。
解決したんだか、持ち越しなんだか分からないまま、責任の一端を担がされるのです。
単に言葉の定義だけの問題であることに気付けば、不一致はただちに消滅します。
言葉の正確な定義の重要性に、もうちょっと注意を払いさえすれば、有意義で建設的な集まりの時間を過ごせると思うのですが。
過去にそんな経験がありましたので書いてみました。
今は解放され、言葉と時間と人を大切にしながら仕事をしています。