菜の花畑でつかまえて〜末っ子ちゃんが帰って来る〜
ナノハナバタケ、牝馬、4歳。2019年5月生まれ。父メイショウサムソン、母ハッピーディレンマ。
中央競馬でデビューするも、全く勝てず、すぐに地方落ちして、現在は高知を主戦場にしている馬だ。
なんの特徴もないこの馬と、僕はまだ会ったことがない。しかしこの馬の名前である「ナノハナバタケ」は、不思議な縁があり、僕が(正確には僕たち家族が)考えたものだ。いわゆる、名付け親である。先に断っておくが、もちろん、僕がその馬主でもないし、生産者でもない。僕は普通のサラリーマンをして、決して多くもなく、かといって食うに困るほど少なくもない給料で、関東の外れに小さな一軒家を構え、妻1人(どこの家庭も大抵そうだろうが)、子供2人の、ごくごくフツーの家庭を持つ40代中頃のおじさんだ。そんな僕が、なぜ一頭のサラブレッドの名付け親になったのか。
この話を始めるには、2年前の夏まで遡らなければならない。
「ねえ、末っ子ちゃんが日本に帰って来るんだって」
嫁さんがそう言い出した時、当然、その後の急転直下の展開を、僕は一切想像することなんてできなかった。確か、食後の後片付けをしている最中で、僕はテーブルの上を片付けたり、布巾で拭いたりしていて、嫁さんは軽く水で流した食器類を、食洗機に手際よく並べている時だったと思う。カウンター越しに、向かい合う形で僕らは話していた。
「今度はどのくらい日本に滞在するのかな?」
僕のその問いに、嫁さんは急にあらたまって答えた。
「ねえ、もしさ、もし、うちに少しだけ長く、末っ子ちゃんが泊まってくとしたら、どう?」
僕はその質問の意図を、全く理解していないまま、別にいいんじゃないかな、と答えてしまった。
「少しだけ長くって、どれくらい?1週間とか?」
「もう少し長いかも。平気?」
末っ子ちゃんは、嫁さんの妹だ。嫁さんは三姉妹の次女。結婚して、旦那さんの転勤に合わせて香港に引っ越した。5年くらい前に、義父母と僕ら家族全員で、旅行を兼ねて香港を訪れたこともある。高層マンションに住んでいて、なんと、住み込みのお手伝いさんまでいた。ヘルパーさんと呼ばれるその人は、フィリピン出身で、若い女性。ヘルパーさんを雇うのは、香港では一般的なことらしい。そのため、それ相応の住居物件には、ヘルパーさん用の寝室や水回りが、あらかじめ組み込まれたものも多いそうだ。
残念ながら、末っ子ちゃんとその旦那さんは2年ほど前に離婚してしまい、今は独身のはずだ。子供はいない。離婚後も、末っ子ちゃんは香港に居残った。向こうで、日本人相手のカメラマンをしている、そう聞いていた。結婚式やお祝い事を撮るカメラマンで、撮影技術は、独学で学んだらしい。よっぽど香港の水が合っていたのだろう。その末っ子ちゃんが、帰国する。
「実は、赤ちゃん連れて帰って来るんだって」
最初僕は、嫁さんが何を言い出したのか、頭の中を整理するのに苦労した。
赤ちゃん、ふーん。
赤ちゃん?
子供?えっ?誰の?
何事もなかった我が家のに、何かが起きそうな、そんな予感に溢れた、梅雨の夜だった。
つづく