明るい介護vol.4母の持病②リュウマチ~他人軸で生きる~
今日の話は、母が、これからの「風」の時代に「最も手放すべき思考」の代表だったというようなお話です。
ずっと母は控えめでおとなしい人だと思っていました。
祖母の亡くなる前は2歳の私を背負って看病し、
お姑さんでありながら
最期は母を頼りにしていたと聞きました。
小さい私は「私のほうが先!」と
祖母の顔を洗ったり、身の回りのことを手伝う母を困らせていたそうです。
商売をしながら・・・
自分の子どもや集団就職してきた子どもの子育てをしながら・・・
看病をしながら・・・
決して弱音を吐くこともなく
父は家にいることも少なかったし
父に逆らうこともなく、
僅かに持っていた借家の「たなこ」さんにも逆らわず・・・
とにかく真面目に一生懸命生きていた人。
楽しみは洋裁。
私の遠足の日の前の夜にいつも夜なべしてかわいい洋服を作ってくれました。遠足の朝にはいつも子供雑誌から抜け出たような新品の洋服が揃えてありました。
両親は仲が良かった。
本当に仲が良かったのですが
喧嘩をしたことがなかったのは
母が父に逆らうことがなかったからだったかもしれないと今思います。
ひょっとしたら
私は無意識のうちに
母と同じ目線で父の顔色を伺っていたのかもしれない。
一方で母の子どもの頃にそっくりだった私は
相当なおてんばで
弟がいじめられようものなら
その相手のところに行って文句を言って帰ってくるような子でした。
学校の帰りには友達を大勢家に連れてきて
どろんこになって夕方まで遊んでいました。
そんな私のことも母はいつも受け入れてくれていました。
リュウマチは自己免疫疾患。
自分の関節を自分で攻める病気。
母の結婚してからの人生は
全て他人軸だったような気がします。
父のため、
親のため、
子供のため・・・
みんなが良ければそれでいい・・・
子どもの頃おてんばだった母は、
ずっとずっとその自分のこころのズレを
見過ごし続けてきた結果がリュウマチだったのだと思うのです。
そして母の痛みは
どんどんとひどくなっていくのでした。
そんな母がリュウマチがきっかけで
朝日放送の早朝の番組に出ることになりました。
そこにも誰かの期待に応える母の姿があったのです。
つづく・・・。