スティーブンス・ジョンソン・シンドローム(症候群)で入院した話。in アメリカ Part1
スティーブンジョンソンシンドローム。
聞いたことある方はどのくらいいるのだろう。。。
私は2020年コロナ禍の真っ最中のアメリカで発症した。
抗てんかん薬のラモトリギン(ラミクタル)を飲み始めて
約3週間後のことだった。
当時、アメリカはコロナ真っ最中。
学校は全てオンラインで、旦那の仕事もオンライン。
一家4人(仲は最悪)が一つ屋根の下で
半年以上、缶詰になっていた時のことである。
いくらアメリカの家が広いとはいえ、それは地獄だった。
毎日兄弟は大喧嘩。
それを諫める私も大声を出す。
旦那もイライラして何かと衝突が絶えない日々。
家族全体が毎日怒鳴り合ってそれはそれは地獄絵図だった。
私のメンタルはやられにやられ、ついに決断を下すことになる。
自分だけでも穏やかにいなければ!
この子たちの心が病んでしまう・・・。
だから、私だけでも精神安定剤のような薬を飲もう!
薬は嫌いだったが、背に腹は代えられない。
せめてママが穏やかに子供たちのオアシスにならなきゃ・・・。
と藁にも縋る思いで医者に相談し、
抗てんかん薬であるラモトリギン(ラミクタル)
を飲むに至ったのだ。
医者からは重篤な副作用はあるけれども、本当に稀で、
まず起こったところはみたことがない。
万が一副作用が起こったとしても、
皮膚が赤くやけどしたように腫れるが、
その時点でやめればひどくなることはないから
危険はないと言われていた。
私はその説明を聞いて、広い範囲が一斉に赤く膨れるのだと
想像していた。
なので、、、見逃した!
ちょうど3週間目に入ったころ、まるでダニに食われたような赤い点がいくつか腕に出た。 痛くもかゆくもなかったし、
ラモトリギンを飲み始めてから今まで違和感を感じたこともなかったので、
虫刺されだと思い込み、薬の副反応は全く疑わなかった。
しかしその翌日。
熱が出た。
コロナ禍だったため、慌てて子供たちと離れたが、
咳はでていないし、そもそも引きこもっていたので
コロナを貰うことがまずあり得ない状態だった。
そのうち熱は38.5度まであがり、
関節痛、喉の痛み、頭痛、目の痛みなどが始まった。
久しぶりに風邪を引いたと思った。
鼻水も咳もないが、本当に風邪と同じような症状だったのだ。
なので、半日くらい様子を見てしまった。
うとうとして目が覚めると・・・
身体がものすごく重い。
動かすのが億劫で、頭がものすごく重く、ズキズキ痛む。
際立ったのは喉の痛みだ。
喉の奥だけではなく、口の中全体が痛くなっていた。
痛くて口を開けないほどである。
私にもわかった。
風邪なんかじゃない。
何か違うことが身体に起きている。
私は朦朧としながら、携帯で病状を調べ始めた。
そこで目がかすんでよく見えないことを知った。
気を取り直そうと一度トイレに行った。
手を洗おうと洗面台に向かい、鏡を見た。
そこには目が真っ赤に充血し、身体の至るところに発疹が
ちらばっている異様な形相の私がいた。
これはヤバい!
その時、なんと検索をかけたのか思い出せないが、
私の目に
スティーブンス・ジョンソン・シンドローム
スティーブンス・ジョンソン症候群
の文字が目に入った。
そこには
薬による副反応。
ラモトリギン投与後約3週間後に発症する
皮膚および口腔内にびらん
発熱と発疹
ラモトリギンによる重症薬疹は死亡例が多い
と書いてあった。
死亡例?
たしかにこの急激な変化は死ぬかもしれない!
私は焦った!
子供たちをこの異国の地に残して
死ぬわけにはいかない!
私は必至でラモトリギンを処方した医者に連絡を取った。
コロナ禍で、熱がある場合、ERに行けるのかさえわからなかったのだ。
旦那は・・・というと、案の定、何も頼りにならない。
この症状や私を見ても顔色一つ変えず、
「ふーん。で?どうすんの?」
だ! 殺意が沸きつつ、もう、極力視界に入らないようにした。
医者からの返信でERには熱があってもかかれることを確認し、
ノートを破いて、それに必死でアルファベットを書きなぐった。
I think I got Steven Jhonsons Syndrome.
口の中が痛くて痛くてしゃべれないと思ったし、
病院まで意識を保っていられるかわからなかったからだ。
急激な症状の変化は、私にそれくらいの危機感を持たせていた。
旦那の運転する車で大きな病院へ行き、ERの入り口に向かった。
幸い、コロナ禍でERも空いていて、
全く待たずに受付の人にコンタクトできた。
そこで、アメリカの病院の初診のあるあるで、書類を書かされる。
住所、名前、保険、ソーシャルセキュリティーナンバーや病歴などだったと思う。。
具合悪いんだからとりあえず一刻も早く処置をしてほしいと思ったが、
そうはいかないのがアメリカだ。
融通が効くところは、ものすごく融通が効くのだが、
こういう事務的なことや、変なところで
ほんっとに融通が効かないのがアメリカである。
気力体力の限界で旦那でも書けそうな内容は旦那に託し、
私は様子を見に来た看護師と思われる人にメモを見せた。
ここで、看護師にメモを渡してしまったら、
そのメモは忘れられたりなかったことになる
のもアメリカである。(もちろん人によるが)
私は、そのメモは命綱であると思い、
決して手放さなかった。
その看護師はメモを見て、私の症状を見て、
確かに!と思ってくれたのか、
途端に真剣な表情で動きがあわただしくなる。
その頃の私の目はもうほとんど白くかすんでおぼろげにしか見えなかった。
外から見れば、真っ赤だったと思う。
一刻も早くステロイドを・・・!
ひたすらにそう願っていた。
私は持病に重症筋無力症を持つので、
こういう免疫異常は即ステロイド投与が必要なことを知っていた。
そして、その願いが通じ、
すぐにERの処置室に入れてもらえた。
そこで、私は直接ドクターたちに私のメモを見せることができた。
ドクターたちの空気が一気にピリっと変わったのを覚えている。
談笑がピタリとやみ、複数のドクターが私を囲んだ。
こういう時のアメリカ人て好きだ。
オンオフの切り替えがすごいのだ。
普段はおちゃらけて、いい加減な感じなのに、
ここぞ!という時はしっかり仕事をこなすアメリカ人。
私はどっと安心したのを覚えている。
ドクターの質問に答えながら安堵と強い痛みで
モルヒネを打った途端、
気が緩んで寝てしまった。
モルヒネを打つといつも私は一瞬ものすごく気持ち悪くなる。
指先が冷たくなり、頭が痛くなり、強い吐き気を覚える。
だが、すぐにふわふわとした心地になり、不安が遠のく。
ぽかぽかとした心地よい暖かさを感じ、
温かい太陽に包まれているように感じるのだ。
その心地よさがたまに懐かしくなるのであるから、
日本でモルヒネが手に入らなくてよかったと心から思う。
次に目を覚ました時、
私はステロイドの点滴につながれており、
医師から
「あなたの言う通り、
スティーブンス・ジョンソン・シンドローム(症候群)
に間違いないと思うわ!」
と告げられた。
「あなた過去にもやったことあるの?
とても珍しい病気なのに、あなたのメモに書いてある通りで
びっくりしたわ!」
と目を大げさに大きく見開いて彼女は笑った。
確かに100万人に2.5人という、
ものっすごい低確率の病気である。
こんなアジア人の小娘(日本人は童顔で若くみられるので)
がズバリ当てたメモを持っているのだから、
医者たちが驚愕したのも頷けた。
事実、かなり大きな病院なのに、
過去にスティーブンス・ジョンソン・シンドロームの症例がなかったらしい。
私はその病院で記念すべき第1号となった。
その事が関係しているのかもしれない。
私の入院生活は想像を絶するくらいひどいものだった・・・。
日本の至れり尽くせりの医療とアメリカの医療は全くちがう。
考え方、死生観も違うのだ。
その苦痛にまみれた入院の様子はpart2で書いていこうと思う。
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