祈りの力で呪いを解いてみる?
こんにちは!
橘奈緒美です!
お弟子仲間から前回の記事の感想をいただき、
「私の呪いは最強だから気をつけてね、と言えるくらいの力を持っている」
と師匠から言われたのを思い出しました。
前回の記事はこちら
呪いって、カウンセラーとしてどうなんだ。。
と思いましたが、呪いと祈りは表裏一体なんだろうと感じているので、今回は「祈り」について考えてみました。
私たちはなぜ祈るのか
皆さんは日常で祈ることってあるでしょうか?
神社や仏閣に行ったとき、神様に祈る。
これはどちらかというと、お願いをする方が多そうですよね。
「彼氏ができますように」
「志望校に合格できますように」
「もっと稼げるようになれますように」
「早くコロナが落ち着きますように」
私は失恋したときには特に、必死の形相でお願いに行っていました。(←ほぼ呪い)
もともと神社仏閣の雰囲気も好きですし、旅行に行くと「近くにいい感じの神社はあるかな?」なんて探してしまいがちです。
それは私の幼少期の宗教の影響もあるかもしれませんが、今はどの宗教も信仰していません。
ではなぜ今も祈るのか?
以前は「お願い」をするために行っていましたが、最近は祈りと宣言をしています。
「神様とつながる場」として用意されている空間は、心が穏やかになったり、厳かな空気が流れていて、やはり特別です。
自宅近くに小さな神社があって、散歩や買い物のついでにちょうどいいんですね。
そこで、「楽しい時間を過ごせたこと」「今月も無事支払いができたこと」のお礼をしたり、
「私と周りの人たちが幸せであるように」祈ったり、「今月は体調管理を頑張ります」などの宣言をします。
「神社では〇〇を達成します!と宣言をしたほうがいい」とか「お願いをするよりもお礼を言うほうがいい」など、いろんなことが言われていますよね。
確かに「無事合格できますように!」よりも、「合格します!見守ってください」のほうが、より本人のコミットメントを感じます。
そして、「私はこうなります」「いつもありがとうございます」という宣言や感謝を繰り返すことは、自分の心にも入っていくと思うので、アファメーションの効果もあるのかな?と思います。
だから、どうせお参りに行くなら「私は愛される価値のある女性です。今月もよろしくお願いします」とか、「今日も心身共に豊かに暮らせています。ありがとうございます」というのもアリなのかも?と思い始めています。
人への祈りと呪いは出方が違うだけ
そんな風に日常的に神社仏閣に行きますが、ふとお別れした相手を思い出したとき、「彼が健康で、幸せでいますように」なんて祈れたら、なかなかイイ感じじゃないですか?
そんなの別れ方によっては簡単にできないし、「孤独死するがいい!」という呪いのほうが簡単にかけられそうですけどね。
(自分に返ってきそうだから本気でやめたい)
でも、どちらの思いにも、出発点には相手を好きな気持ちがあります。
ただ、その思いの根っこが「愛」なのか「執着」なのかという違いがあり、出る方向が「祈り」か「呪い」になってるだけの違いではないでしょうか。
どうせなら、「祈り」のほうを送れるようになったほうが平和ですし、相手を早く許せたほうが自分が幸せになるのも早いはず!
とはいえ、その人に執着をしているときは余計に相手の幸せを願うのは難しく感じます。
執着がなかなか手放せないのは、「何のために手放すのか?」というビジョン(目的)がないから、と先日教えていただきました。
確かに、手放しのワークなどを頑張るにしても、目的もなく行動し続けるのは辛いですもんね。
ビジョンと言われると、「もっとやりがいのある仕事」とか「愛する人との結婚」という目的が明確なものを思い浮かべますが、「自分がどうありたいのか?どんな気分でいたいのか」という「感情」もビジョンになるようです。
例えば「愛情にあふれる心穏やかな毎日を過ごしたい」というあり方でいたいなら、人を恨むよりも、相手のために祈ったり応援できるほうが、今すぐそのあり方を実践できますよね。
だから今どんな関係の相手だとしても、その人の幸せを祈れる自分でいられたら、この先の自分がこうありたい、という姿に少しでも早く近づけるのではないでしょうか。
人のために祈ることの効果
そして、人のための祈りにはちゃんと効果があるんじゃないか?と私は思っています。
前回の記事でも触れましたが、アメリカのいくつかの大学や病院で行われた実験では、祈りを送ってもらったグループのほうが、祈りを送ってもらわなかったグループよりも回復が早かったり、重症化しなかったという結果があるそうです。
私自身の経験でも、祈りの効果を感じたことがあります。
それは、父がホスピスで牧師さんに祈ってもらっていたとき。
父は無神論者でしたし、「自分のために祈ってください」なんて、あんなに仕事人間で強気だった人が言うなんて、と最初は驚きました。
でも、死にゆく人からすれば家族は残していく相手としかみられないし、家族側はどうしても、一日でも長く生きて欲しいと願ってしまいます。
だからこそ、死の先のことを話せるのは、神職の人たちやヒーラーと呼ばれる人たちなんですよね。
もちろんカウンセラーもその中に入ると思います。
そういった、残して行く人たちとは別の、縁もゆかりもない他人が、自分のためだけに祈ってくれること、そして不安に寄り添ってくれることで、一時的でも落ち着きを取り戻せるんです。
もう希望がないという状態のなかでも、たとえ一瞬であっても、絶望のなかで安心感を与えることができる、それが祈りの力なんだと思います。
そして、家族もそれぞれに祈っていました。
妹は「自分の寿命を分けられたらいいのに、って思ってお願いしてたけど、だめだったね」と言っていました。
誰かのために祈ることは、「自分は無力だ」と感じているときにも最後までできることであり、その行動が祈る側の救いにもなるのだと思います。
嫌いな人のために祈る
さて、もともと好きな相手なら好意的な祈りができそうですが、嫌いな相手に対してはどうでしょう?
私はまだ未熟なので、嫌いな相手のことはサッサと忘れてしまいたいけれど。。
でももし嫌いな相手のために祈ることで得られるものがあるとすれば、私は以下の二つが得られるのかな、と思いました。
一つ目は、相手がもし、自分の中にある隠したい部分や嫌な部分を見せてくれる「シャドウ」だった場合。
その人を許すことが自分を許すことにもつながるなら、相手のつらそうな部分をいたわったり、応援するための祈りはできるかもしれません。
二つ目は、周りの人を妬んだり恨んだりしていると、その人が幸せになるぶんだけ、自分が不幸になるような気分になりませんか?
でも、もしその人の幸せを祈ったり応援して、本当に幸せになって行ったら。あなたの周りでは幸せな人が増えることになる。
人は自分と似たものを引き寄せますから、幸せな人に囲まれたあなたの幸福度も一緒に上がっていきます。
だから、自分のためにも、嫌いな人のために良いことを祈れたらいいんだろうなと思います。(とても難しいけど!)
少し前に、マインドフルネス瞑想の「慈悲の瞑想」というレッスンを受けたんですね。
慈悲の瞑想では、まずは自分の幸せを祈り、次に周りの大切な人→世界の人達→生きとし生けるもの→そして最後に苦手な人、とだんだん範囲を広げていきます。
そうして他人と自分との分断を無くし、自分にも他人にも慈しみの心を持てるようにする、ということを目的としています。
最後は、自分が一番苦手な人を思い浮かべて、「その人が幸せでありますように、その人の夢や願いが叶いますように・・・」と繰り返していくものでした。
このとき、最初に浮かんだのは元同僚でした。
そして、やっぱり心がザワザワしました。
でも、これも無感情で何度か続けると、本当に不思議なんですけど「あの時のあの人は、ああするしかなかったのかも」と、ふと思う瞬間が来るんです。
「相手との分断を無くす」ということは、相手の立場を思いやり、自分の心の反応にふりまわされなくなることだと思います。
でも、されたことをスッパリ忘れるわけではないから、思い出せばやっぱり心がチクッと痛みます。
でも、もし思い出したとしても落ち込むことはなくなって来ました。
何度も思い出して強化されてしまった嫌な記憶が、以前よりはニュートラルな視線で見られるようになってきたのかもしれません。
とはいえ、今後も誰かに対して「許すまじ!」と呪っちゃうことはあると思いますし、そのたびに相手は、小指を強く激しくぶつけるかもしれません。
でも、自分が辛い時、人から祈ってもらえたり応援されたいなら、誰かに心置きなく私の幸せを祈ってもらうためにも、私自身が愛される人になっていたいとも思うんです。
そして自分にかけてしまった、「こんな私は愛されない」という呪いも、「愛される私になれますように」という祈りで解けたら良いな、と思います。
またとりとめのない文章になってしまいましたが。。
この記事を読んでくださった、
あなたが幸せでありますように。
あなたの大切な人も、幸せでありますように。
読んでいただき、ありがとうございました!
橘奈緒美でした!