【翠の料理人 第3話】3分で読める恋愛小説|青春物語|毎日21時更新
3. 料理と心の距離
その週のある夕方、仕事がひと段落した後、私は厨房へと足を運んだ。
約束通り、一太に料理を教えてもらうためだ。
正直、少し緊張していた。
彼と二人きりでの時間がどうなるのか、まだ全然わからない。
でも、一太の料理に対する真剣さに触れてみたいと思っていた。
「お邪魔します…」
そう声をかけると、彼はすでにまな板の前に立っていた。
彼は無言で頷くと、用意していた食材を指し示した。
「今日は、簡単なものから始めよう。まずは野菜の下ごしらえから」
彼の手際の良さに感心しながら、私は包丁を握った。
しかし、いざ野菜を切ろうとすると、なかなか思うようにいかない。
包丁の重みや切れ味をうまくコントロールできず、何度か手を滑らせそうになる。
「違う。もっと包丁をしっかり握って、指先を守るように…」
一太は無言で近づいてきて、私の手を軽く触れながら教えてくれた。
彼の手は温かくて、でも確かな力があった。
その瞬間、彼の真剣な表情が少し柔らかく見えた気がした。
「…ありがと」と、私は照れくさくて短く返事をした。
一太はまた黙々と自分の作業に戻り、魚の下ごしらえに取りかかった。
彼の手の動きは、まるで何年もそれをやり続けてきたかのように熟練していた。
私は彼のその集中力に見とれていた。
「料理をしている時って、他のことを全部忘れられるんだ」
一太がぽつりと呟いた。
彼が自分から話し始めるのは珍しかったので、私は驚いて聞き入った。
「昔から、何かに没頭しているときが一番落ち着くんだ。周りのことが気にならなくて、自分だけの世界に入れるから…」
彼の言葉には、どこか孤独を感じさせる響きがあった。
私は彼が料理に対して持つ情熱が、ただの技術以上のものだと感じ始めた。
料理は彼にとって、世界との接点を持たずに済む場所だったのかもしれない。
「じゃあ、料理って一太さんにとって特別な場所なんですね」
私は彼の気持ちを理解しようと、そう言ってみた。
「…ああ、そうかもしれない」
彼は短く答えたが、その声には少しだけ迷いが感じられた。
その夜、私は彼との距離が少しだけ縮まった気がした。
それでも、一太の心の中にはまだ解き明かされていない謎がある。
それは、なぜ彼が料理人を目指しているのか・・・
その理由をまだ聞く勇気はなかったが、いつかその答えが分かる日が来るような気がした。