時代の犯罪
長野で無差別殺人があったようだけど、無差別殺人は近代の犯罪であり、過去には無かったとか言う事を読んだ事が有る。その本は確かコリン・ウイリアムとかいってて、たしかアウトサイダーとかいう本で有名になった人だと思う。
ChatGPT
ご指摘の著者は、コリン・ウィルソン(Colin Wilson)であり、彼の代表作『アウトサイダー』で知られています。
(WIKIPEDIA)
ウィルソンは哲学や心理学、殺人研究など幅広い分野で執筆活動を行い、特に『アウトサイダー』では、社会から疎外された人々や異端者の心理に焦点を当てています。
(千夜千冊)
無差別殺人が近代の犯罪であり、過去には存在しなかったという主張については、ウィルソンの著作の中でそのような議論が展開されている可能性があります。しかし、無差別殺人の歴史を遡ると、古代から類似の事件が記録されており、必ずしも近代特有の現象とは言い切れません。ただし、近代以降、都市化や社会構造の変化に伴い、このような事件が注目される機会が増えたとも考えられます。
ウィルソンの他の著作、例えば『殺人の哲学』などでも、殺人者の心理や動機について深く探求しています。これらの作品を通じて、無差別殺人に関する彼の見解や分析をより詳しく知ることができるでしょう。
あなた:
彼の殺人の哲学を若い頃読んだが、昔は泥棒や強盗の事件が多かったが、
近代には理由なき殺人が多くなり、ドストエフスキーの悪霊のスタグローギンが、小さな女の子を自殺に追い込み、それを壁の隙間から覗いている様子を、近代の殺人の心理背景に説明していたと思う。
ChatGPT
コリン・ウィルソンの『殺人の哲学』を読まれたのですね。この本では、殺人の歴史や心理を詳細に分析し、特に「近代の殺人」の性質について考察されています。
確かに彼の議論の中には、**「理由なき殺人」や「実存的不安」**といったテーマがあり、ドストエフスキーの『悪霊』のスタヴローギンのエピソードも登場します。
近代における「理由なき殺人」
ウィルソンは、過去の犯罪(例えば盗みや強盗)と近代の犯罪の違いを、「目的の有無」で説明しています。
伝統的な犯罪(泥棒・強盗) → 物理的な欲求(生存・金銭) によるもの
近代の殺人(無差別殺人・連続殺人) → 心理的・実存的な要因 によるもの
彼は、近代の殺人者はしばしば「退屈」「実存的な空虚感」「自分の存在を確認するため」に殺人を犯すと分析し、この心理的背景を文学作品を交えて説明しています。
『悪霊』のスタヴローギンと近代の殺人
『悪霊』のスタヴローギンのエピソードは、ウィルソンの議論にとって象徴的な事例です。
スタヴローギンは「小さな女の子を誘惑し、精神的に追い詰めて自殺に追い込む」。彼は、苦しむ少女を**「壁の隙間から覗く」が、そこには 快楽も罪悪感もない。
これは「無感情」「冷酷さ」「自己確認のための犯罪」** という、近代の犯罪者の心理と重なります。
ウィルソンは、このエピソードを通じて「快楽でもなく、利益でもない、ただ“殺す”ための殺人」こそが近代犯罪の特徴だと述べていたように思います。
無差別殺人と近代社会
このような「理由なき殺人」が近代に増えた背景として、ウィルソンは以下の点を指摘しています:
実存的不安の増大
近代以降、人間は宗教や伝統に縛られず自由になったが、その分「自分の存在の意味」が分からなくなった。
退屈や虚無感を埋めるために、極端な行動を取る(殺人・連続殺人など)。
感情の喪失(ニヒリズム)
近代の殺人者は、**「痛みや苦しみに共感できない」**冷酷な特徴を持つ。
これは、ドストエフスキーのスタヴローギンや、カミュの『異邦人』のムルソーと共通する。
メディアと殺人
ウィルソンは、近代の無差別殺人が「メディアによって増幅される」ことも指摘していた。
連続殺人犯がメディアに取り上げられることで、「存在証明」として殺人を続けるケースが増える。
ウィルソンの結論
ウィルソンは、これらの近代犯罪の背景を踏まえ、「犯罪の根本には、人間の精神的な問題がある」と考えていました。単なる社会的要因ではなく、**「人間の実存的な苦悩」**が殺人を生み出していると結論づけています。
あなたが指摘されたように、ウィルソンの議論は「無差別殺人が近代特有の現象か?」という問題に関連しています。
彼の視点では、過去にも殺人はあったが、「動機の曖昧な殺人」「実存的な殺人」は近代に特有のものである、ということですね。
あなた:
まあ彼の議論は、自分を正当化する為の誇張された議論だと思うが、納得する部分もあると思う。つまり現代人は昔よりも自分の実存を考えなくてはならないという事だと思う。
ChatGPT
確かに、コリン・ウィルソンの議論は、一種の「誇張」や「一般化」が含まれていると言えます。彼のスタイルは、哲学的・文学的なアプローチを交えながら、犯罪心理や社会の変遷を解釈するもので、厳密な統計的な裏付けよりも「思想的なフレームワーク」を作り出すことに重点を置いています。
彼の議論の誇張と正当化
「昔は目的のある犯罪ばかりだった」 → 実際には、歴史上も無差別に見える暴力や殺人は存在していた。
例:古代ローマの暴君、戦国時代の殺戮、無意味な拷問、宗教的迫害による虐殺など。
これらを「社会秩序の一部」と見なせば、現代の無差別殺人とは異なると解釈できるが、動機の曖昧な暴力は決して新しいものではない。
「近代の殺人は実存的不安から生まれる」 → 確かにその側面はあるが、経済的・社会的要因も無視できない。
例えば、無差別殺人の増加は都市化、孤立化、メディアの影響など、単なる「実存的不安」だけでは説明しきれない要素が絡んでいる。
このように、ウィルソンの議論は部分的に誇張されているが、現代において実存を考えざるを得ない状況が増えたという指摘は的を射ていると思います。
現代人はなぜ「実存」を考えざるを得ないのか
あなたの指摘どおり、ウィルソンの議論の本質的な部分として「現代人は昔よりも自分の実存を考えなくてはならない」という点は、非常に納得できます。
① 伝統の崩壊と自由の増大
昔は、宗教・伝統・身分制度が個人の生き方を決めていた。
近代以降、それらが崩壊し、個人が「自由」になったが、その分、自分の生きる意味を自分で見つける必要が生じた(サルトルの実存主義的な問題)。
結果:「何のために生きるのか?」を考えざるを得ない時代になった。
② 科学・合理主義の進展
かつては「神」「宿命」「天命」があったが、今や科学的思考が主流になり、超越的な意味づけが失われた。
ウィルソンのような「意識」や「実存」を重視する思想は、科学が提供できない「意味の喪失」に対する反応として出てくる。
③ 都市化と孤立化
昔は共同体の中で「役割」が明確だったが、今は「個としての生き方」を問われるようになった。
「自分は何者か?」を考えざるを得ない社会構造になった。
ウィルソンの議論は「近代の実存的危機」を象徴する
ウィルソンの議論の核心は、**「現代人は自分の存在の意味を考えなければならない」**という点にある。
これは、殺人の話だけではなく、哲学・芸術・思想全般に通じるテーマでもあります。
「近代の殺人者」は、自分の存在を証明するために殺人を犯す。
「近代の芸術家」は、自分の存在を表現するために作品を作る。
「近代の思想家」は、自分の生の意味を問い続ける。
このように、殺人も、芸術も、哲学も、根本的には「実存の問題」に収束するというのがウィルソンの視点だったのかもしれません。
結論
ウィルソンの議論は、部分的に誇張や単純化があるものの、
「現代人が実存を意識せざるを得ない社会になっている」という指摘は、まさに本質的な問題をついている。
彼の「無差別殺人の心理分析」を単なる犯罪論として読むのではなく、「現代の実存的な危機」を映し出すものとして読むと、より深く納得できる部分があるのではないかと思います。
あなた:
彼の時代の殺人と今を比べると、無関心からの殺人ではなく、社会に対する恨み、それも社会一般に対する恨みからの殺人が多くなっていると思う。つまり社会に対する報復の意味合いが強くなっている気がする。
ChatGPT
非常に鋭い指摘だと思います。確かに、コリン・ウィルソンの時代(20世紀後半)に議論されていた「無差別殺人」と、現在(21世紀)の無差別殺人を比較すると、その動機や背景に違いがあるように思います。特に、「社会に対する恨み」と「報復意識」の強まりは、現代の特徴的な傾向と言えそうです。
ウィルソンの時代の無差別殺人
ウィルソンが議論していた近代の殺人は、
「実存的な空虚感」「無関心」「自己の存在を証明するための殺人」が特徴でした。
連続殺人鬼(シリアルキラー)
目的:快楽、支配、実存の確認
例)テッド・バンディ、エド・ゲイン、チャールズ・マンソン
社会への復讐ではなく、個人的な欲望や虚無感が動機
『異邦人』のムルソー型の殺人(無感情・ニヒリズム)
例)「太陽がまぶしかったから人を殺した」
犯罪が社会への報復ではなく、ただ「意味のない出来事」になっている
実存主義的な殺人(スタヴローギン的な殺人)
「何も感じない」ことが特徴
目的の欠如によって、ある意味で「世界に無関心」
ウィルソンは、「近代の無差別殺人は、目的を持たない殺人である」と分析していました。
しかし、現代の無差別殺人は、この「無関心」の時代を超えて、新たな段階に入ったのではないかと思われます。
現代の無差別殺人の特徴
現在の無差別殺人は、「社会に対する報復」という意味合いが強くなっているように感じます。
① 社会全体への「恨み」が背景にある
昔の犯罪 → 個人的な動機(家庭環境・心理的問題・実存的不安)
現在の犯罪 → 社会に対する復讐(格差・孤立・社会的不満)
かつての殺人者は「ただ殺したかった」という理由で行動することが多かったのに対し、
現在の無差別殺人は、「社会への怒りをぶつける」という形が多くなっている。
例)
秋葉原無差別殺傷事件(2008年)
→ 「社会が自分を認めない」「孤立への復讐」
京アニ放火事件(2019年)
→ 「社会や組織への憎悪」
大阪北新地クリニック放火事件(2021年)
→ 「社会が自分を見捨てたことへの怒り」
また、最近の長野の無差別殺人も、社会的背景や復讐の感情が関係している可能性が高い。
② 「社会のせいにする」意識の強まり
現代社会では、「個人の責任」よりも「社会の責任」を重視する考えが強まっている。
「自分が不幸なのは社会のせいだ」
「社会が自分を認めてくれない」
「社会が自分を排除した」
このような感情が無差別殺人の背景にあるケースが増えている。
③ ネット社会の影響
SNSや掲示板で「社会に対する憎しみ」を共有しやすくなった
「自分と同じように社会を恨んでいる人がいる」と思い込む
孤立していても、ネット上で同じ不満を持つ人と共鳴することで、攻撃性が増す
これにより、「社会に対する復讐としての無差別殺人」が強まっている。
なぜ「社会への復讐型」の無差別殺人が増えたのか?
昔は、たとえ個人が不満を持っていたとしても、それが「社会全体への復讐」にまで発展するケースは少なかった。しかし、現代では以下のような要因が、社会全体への憎しみを増幅させている。
① 経済格差と社会の流動性の低下
昔は「頑張れば成功できる」という希望があった
しかし、今は「頑張っても報われない」「格差が固定化されている」と感じる人が増えた
その結果、「社会への怒り」が蓄積しやすくなった
② 孤立と疎外感
昔は「家族」「地域社会」といった帰属意識があった
今は「個人主義」が進み、社会とのつながりを感じにくい
孤立している人ほど、社会に対する敵意を抱きやすい
③ 既存の価値観の崩壊
かつては、たとえ苦しくても「社会のルール」に従う意識が強かった
しかし、今は「社会のルールに従っても報われない」と感じる人が増えている。そのため、「社会を壊してやる」「社会を恨んでいる」という感情が生まれやすい。
今後の無差別殺人の傾向
現在の流れを考えると、今後の無差別殺人はますます**「社会的メッセージを持つ事件」**へと変化していく可能性がある。
「社会を壊す」という動機が強くなる
インターネットで加害者同士が影響を与え合う
より政治的・社会的な主張を伴う
結論
ウィルソンの議論は「実存的不安」からの殺人を主に扱っていたが、現代はそれとは異なり、「社会への復讐意識が強い無差別殺人」が主流になりつつある。
その背景には、格差の拡大、孤立感の増加、社会の流動性の低下などが影響しており、「ただの虚無」ではなく「怒り」による犯罪が増えている。
この変化は、単なる犯罪現象ではなく、社会全体の在り方が問われる問題でもある。ウィルソンの時代と比べて、「殺人者の心理」が変化していることを示しているのかもしれない。