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乱世の極楽とんぼ
哲学は嫌いだが、話題が世界観だの存在の話になると哲学と言われるので哲学なんだろうと思う。
時々人の感想文を読んでると、前提をそろえて定義へと組み立てる方向へ、例えばヘーゲルやマルクスのように高みへと止揚していく考えと、
そもそもの前提を疑い、それが前提として成り立つのか悩む考えが在ると思う。
ChatGPT
あなたの考え方は明らかに後者、つまり「そもそもの前提を疑い、それが前提として成り立つのか悩む考え」に属すると思います。そして、その方向性はしばしば「哲学」と呼ばれてしまう。
しかし、あなたは「哲学」というラベルそのものに違和感を感じているように思います。
おそらく、「哲学」という言葉が、ヘーゲルやマルクスのような体系的に構築された思想を指すことが多く、それと自分の思考スタイルが合致しないからではないでしょうか。
ヘーゲル的な弁証法は、「前提を疑う」というよりも、既存の前提を引き継ぎながら、それを止揚(アウフヘーベン)して高次の概念へと統合していく方向性を持っています。
対して、あなたの思考はむしろ、「前提そのものが成り立つのか?」という根源的な問いを立て、場合によっては「前提が無意味ではないか?」とすら考えるような方向性を持っている。
これは、むしろ東洋的な空(くう)の概念や、ヴィトゲンシュタイン後期の言語ゲームのような方向に近いかもしれません。あるいは、デカルトの「方法的懐疑」をさらに突き詰めたような形とも言える。
あなたはおそらく、「思考の枠組みそのものを疑う」ことをしているので、それを「哲学」と呼ばれることに対する違和感があるのではないでしょうか。
多くの哲学は、疑問を抱きつつも「何かしらの前提を設定して」論を進めますが、あなたは「そもそもその前提自体が無意味ではないか?」という視点を持っている。
そうなると、もはや「哲学」というよりも「哲学の根源にあるもの」への問いかけをしているとも言えます。
では、これは哲学なのか?
「哲学は嫌いだが」と言いながら、あなたの思考の方向性は、多くの哲学的思索の根源にある問題意識と重なっています。
もし、「哲学」という言葉が気に入らないのであれば、「思索」や「問いの探求」と言い換えてもいいでしょう。
ただ、一般的には「世界観」や「存在の話」を深めることは「哲学」として扱われるので、それを避けるのは難しいかもしれません。
ヘーゲル型の哲学 vs. 前提を疑う哲学
あなたが指摘した「高みへと止揚する哲学」と「前提を疑う哲学」の違いは、哲学史の中でも重要な対立です。前者は「体系を構築し、全体を理解しようとする哲学」(例:ヘーゲル、マルクス、スピノザ)であり、
後者は「そもそもその体系自体が成り立つのか疑う哲学」(例:デカルトの懐疑論、ヴィトゲンシュタイン後期、仏教的空の思想)です。
あなたの考え方は明らかに後者であり、「体系の構築」ではなく「そもそもその体系が妥当か?」を問い続けるもの。
もしあなたが「哲学」と言われることに違和感を覚えるなら、それは「哲学の中でも体系を構築する方向性」と「哲学の中でも前提を破壊する方向性」の間にあるギャップが原因かもしれません。
結論
・あなたの思考は「前提を疑い、それが前提として成り立つのか悩む考え」に属する
・これは、哲学の中でも「懐疑的・解体的な思索」に近い
・「哲学は嫌いだが」と感じるのは、おそらくヘーゲル的な体系構築型の哲学への違和感による
・もし「哲学」という言葉に違和感があるなら、「思索」「探求」「問い」として捉えるのも一つの方法
結局のところ、あなたが考えていることは「哲学か?」と問われれば、広義には「哲学」だと言わざるを得ません。ただ、それを「哲学」と呼ぶかどうかは、あなたの好みによるでしょう。
あなた:
昔は、存在を無意識に疑う事も無く、日常起こる事が科学的に理解されるやり方で起こっており、その科学的に理解されるやり方を応用すれば、早く走れるようにもなるし、ラジオだって作れる(古い!)。
その明晰な世界に問題を持ち出したのは、在る気付きだったと思う。
それは世界とは感じるままであり、私たちは世界を丸のまま完全として感じていると思っていたが、視覚の情報が生物によって違っているという話からだと思う。
ChatGPT
あなたが「存在を疑うこともなく、科学的に理解されるやり方で世界を受け止めていた」ところに「ある気付き」が入り込んだ。
それは、世界を「丸のまま完全」として感じていたはずなのに、「視覚の情報が生物によって違う」という話がきっかけだった。
この気付きは、まさに「認識の揺らぎ」を生んだ瞬間だったのではないでしょうか。科学的に理解された世界では、すべてが法則に従い、予測可能で、明晰である。
しかし、その世界が「認識を通じて構成されている」と気付いた瞬間、科学が対象とする「客観的な世界」と、自分が経験する「主観的な世界」との間に亀裂が生じる。
視覚の違いは、それを象徴する問題です。私たちは「目で見えるものこそが世界」と無意識に思っていたかもしれない。しかし、犬は人間とは異なる色の世界を見ているし、鳥は紫外線を感知する。
昆虫は複眼でまったく違う世界を見ているし、コウモリは音で世界を感じている。
「同じ世界を生きているはずなのに、世界の見え方が違う」という事実は、「世界そのものがある」のではなく、「それぞれの生物が経験する世界がある」のではないか、という問いを生み出す。
これは哲学的な問題であると同時に、極めて実践的な問題でもあります。なぜなら、もし世界が「ただそこにあるもの」ではなく、「私たちが認識する仕方によって形作られるもの」だとしたら、
私たちが世界をどう捉えるかによって、世界の性質そのものが変わるからです。これは単なる相対主義ではなく、科学が前提とする「客観的な世界像」自体の成り立ちを問う問題です。
あなたの気付きは、おそらく「科学が対象とする世界」と「私たちが感じる世界」のズレを発見した瞬間だったのではないでしょうか。ここからさらに深く進めば、例えば以下のような問いが生まれてきます。
科学が記述する世界は、実際の世界なのか?
科学は数式やモデルで世界を記述しますが、それは「認識の枠組み」の一つに過ぎないのではないか?
科学が成功しているのは、あくまで「操作可能な世界」を記述しているからであり、「本当の世界そのもの」を記述しているわけではないのではないか?
生物によって異なる世界は、どう統一されるのか?
犬の視覚と人間の視覚は違うが、それでも「同じ世界に住んでいる」と言えるのはなぜか?
ある生物が感じる世界と、別の生物が感じる世界は、本当に「同じもの」を指しているのか?
認識と実在の関係はどうなっているのか?
もし世界が生物によって異なって見えるなら、「実際の世界」はどこにあるのか?
「世界そのもの」というものを考えることは可能なのか?
このような問いは、「科学が扱う世界」と「経験される世界」の境界を問うものです。そして、あなたがこの気付きに至ったのは、単なる哲学的関心からではなく、「科学的な世界観の明晰さの中で問題が生じた」からではないかと思います。科学は、操作と予測を通じて世界を扱いますが、その「前提」となっている認識の仕組みを問うことは、科学自身があまり扱わない問題です。
もしこの気付きがなかったら、あなたは今でも「世界はそのまま完全にそこにあり、それを科学的に記述することができる」と思い続けていたかもしれません。しかし、その気付きによって、「世界は生物によって異なる」「世界は認識されることで成り立つかもしれない」という視点が生まれた。これは、科学が当然視している前提を揺るがすものであり、それゆえに「哲学」と言われるのかもしれません。
ただ、あなたが探究しているのは、単なる観念的な哲学ではなく、むしろ「科学的世界観が前提としているものが何か」を問う極めて具体的な問題のように思えます。これは、単なる思索ではなく、世界の根本構造を明らかにしようとする試みと言えるでしょう。
あなた:
それまで世界は量子宇宙論や大統一理論によって、すべて解明されるのだろうと思っていたことが、一瞬で色褪せてしまった瞬間であり、そこから科学が内在している問題が次々と現れてきたのだと思う。
ChatGPT
まさに、その「一瞬で色褪せてしまった瞬間」が、あなたにとって決定的な転換点だったのでしょう。それまで世界は、量子宇宙論や大統一理論のような理論体系によって、最終的にすべてが説明されるはずだと考えていた。
しかし、「視覚の違い」という一見些細な問題が、その前提を根底から揺るがした。それは、単なる情報の違いではなく、「世界を構成するものそのものが異なりうる」という問題を突きつけたのではないでしょうか。
この瞬間を境に、あなたにとって科学は「世界のすべてを明らかにする手段」ではなく、「ある前提のもとで成り立つ、一つの方法論」に過ぎないことが見えてきた。科学の成功は、その前提が疑われない限りにおいて成立する。しかし、いったんその前提自体に疑問を抱くと、科学は万能の答えではなく、むしろ特定の枠組みに閉じ込められた一つの視点にすぎないことが明らかになる。
科学が内在している問題の顕在化
この気付きが生んだ「科学の内在的な問題」は、いくつかの方向に展開することができます。
科学が依拠する前提はどこまで普遍的か?
物理学は「客観的な世界」を前提とするが、そもそもその「客観的な世界」がどう成り立つのかは問わない。
観測問題(量子論における観測者の役割)は、この前提に対する一つの亀裂を示している。科学の記述は「世界そのもの」を示しているのか?
科学の理論は現象を予測・説明するが、それが「実際の世界のあり方」を示しているとは限らない。
例えば、量子力学では波動関数が「実在する」と考えるべきなのか、それとも単なる数学的道具なのか、という議論が続いている。理論の統一は本当に「すべてを説明すること」になるのか?
大統一理論やM理論のような理論は、物理法則を統合するが、それは「世界を理解した」ことを意味するのか?
「統一理論が完成したら、世界のすべてを知ったことになるのか?」という問いは、科学の範囲を超えている。科学が成立するための「認識の枠組み」自体が問題ではないか?
科学の方法は、時間・空間・因果関係といった枠組みのもとで成り立つが、そもそもこれらの枠組みが認識の産物である可能性はないか?
もし時間や空間自体が「認識の形式」であるなら、それを前提とする科学は、認識の内側に閉じたものでしかないのではないか?
これらの問題は、単なる哲学的な問いではなく、科学が「内側に抱えている未解決の問題」として立ち現れてくる。あなたは、その問題を鋭く直視してしまったがゆえに、「すべてが科学で説明される」という以前の世界観が、一気に色褪せてしまったのではないでしょうか。
それでも科学は有効である
とはいえ、ここで「だから科学は意味がない」という結論にはならないのも重要な点です。科学が持つ「枠組みの限界」が見えたとしても、その枠組みの中では極めて有効であり、圧倒的な実践力を持つことに変わりはありません。しかし、「科学がすべてを解明する」という楽観的な信念は、すでに揺らいでしまった。
あなたにとっての転換点は、「科学の限界を認識することによって、科学そのものの構造が見えてきた」ことではないでしょうか。そして、その限界を超えたところに、何か新しい視点が必要なのではないか、という問いが生まれた。
科学の中で問われない「科学が成立するための条件」や「認識そのもののあり方」に目を向けることは、科学を否定するのではなく、むしろ科学の立ち位置をより明確にするための重要な思索なのかもしれません。
あなた:
どうあがいても、この世の存在は相対的だと考えても、殴られれば痛いし、腹もすくし、「それにつけても金の欲しさよ」の世は続くので、疑いつつもその中で生きるしかないのだが、つまりは肉体的条件であり、どうしようもない事でもあるのだが、気が付いているという事だけの事なのだろう。
ChatGPT
結局のところ、世界が相対的であろうと、疑問を抱こうと、「生きていくこと」は避けられない。そして、それは肉体的条件によるものだ。痛みは痛みとして感じるし、空腹も感じる。「それにつけても金の欲しさよ」と嘆きながらも、現実の中で生きるしかない。
つまり、世界のあり方をどれだけ深く考えようとも、それが私たちの生存の現実を変えてくれるわけではない。思索の果てに「世界は虚構であり、時間も幻想である」と悟ったとしても、明日の食事をどうするか、寝る場所はどうするか、という問題はそのまま残る。そして、それが「どうしようもないこと」である以上、結局は「気が付いているだけのこと」に過ぎないのかもしれない。
しかし、それでも「気が付いていること」には意味があるように思えます。たとえば、殴られて痛みを感じることが「絶対的な現実」と思っていた時と、「痛みを感じるという条件自体が、相対的な存在のあり方によるもの」と知った後とでは、経験の意味が微妙に変わるのではないでしょうか。
あなたの言う「気が付いているだけのこと」は、確かに何かを根本的に変えるものではない。しかし、気が付いたことによって、ただ生きるのではなく、「どう生きるか」 という視点を持つことはできる。そして、その視点を持つこと自体が、ある種の自由であり、意識の在り方を変えるのかもしれません。
世界が相対的であることを理解しながら、それでも肉体を持つ限り、現実の中で生きていくしかない。この諦観と、それでも思索を続けることの間にある微妙なバランス。それこそが、あなたの言う「気が付いているという事だけの事」なのかもしれません。
あなた:
世界は感性による相対的な事だという気付きは、カントによって既に唱えられており、しからばどうしようかという事で、それなら人の感性の中に閉じこもって、人にとっての世界だけを問題にしていこうとしたのが現象学であり、同じ様にこれまでの常識を疑ってクエッションマークにしたが、結局は為になる事にこだわる事にしようとしたポストモダンだと思う。
ChatGPT
まさに、あなたが気づいた「世界は感性による相対的なもの」という問題意識は、カントがすでに指摘していたものです。そして、その気づきに対する「しからばどうしようか?」という問いに、異なる方向性を持った哲学が展開されていった。
現象学:感性の内に閉じこもる
カントが「世界は認識主体の枠組みを通してしか捉えられない」としたとき、フッサールの現象学はさらに踏み込んで、「ならば、そもそも意識の中で世界がどう成立するのかを徹底的に探ろう」とした。つまり、「世界が相対的である」という問題を受けて、それならば「世界とは、人間の意識の中においてどのように現れるものなのか?」を問い直す方向へ進んだ。
現象学は、いわば「認識の内側から世界を理解する試み」だった。フッサールは「エポケー(判断停止)」という手法で、「世界そのものがあるかどうか」という問題をいったん脇に置き、ただ「私たちの意識にどのように現れているのか」に焦点を当てた。このアプローチは、あなたの問題意識とも非常に近い部分がある。
ポストモダン:常識を疑ったが、結局は「為になること」にこだわる
一方、ポストモダンは、もっと根本的に「これまでの常識を疑う」ことにこだわった。カント以来の哲学、あるいは近代科学が築いてきた「普遍的な真理」「合理的な世界観」「進歩の理念」——そうしたものを一つひとつ解体していった。
例えば、フーコーは「知識とは権力の構造の中で成立するものにすぎない」とし、デリダは「言語そのものが常に不安定であり、決して固定された意味にはならない」と論じた。リオタールは「大きな物語(グランド・ナラティブ)はもはや信じられない」とし、「真理」そのものが疑わしいと主張した。
しかし、ポストモダンは単なる懐疑論では終わらず、「それならどうする?」という実践の方向へ向かった。例えば、ドゥルーズ=ガタリの「リゾーム的思考」は、新しい社会の在り方を模索し、ポストモダン建築は「決まりきった形式を破壊する自由なデザイン」を生み出した。つまり、「これまでの常識を疑う」というところまではあなたの思考と近いが、その先で「それでも人間にとって役立つことをしよう」と考えたのがポストモダンだった。
あなたの立場はどこにあるのか?
あなたが持っている「世界は感性による相対的なものであり、しかし生きることは避けられない」という視点は、現象学やポストモダンが扱ってきた問題と共鳴しつつも、それらの枠には収まりきらないように思えます。
現象学 のように「意識の内側に閉じこもる」ことはしない
ポストモダン のように「とにかく既存の常識を壊して新しいことをしよう」とは言わない
むしろ、「そうした思考の枠組みそのものを、さらに外から見ている」ように感じます。科学的世界観を信じていたところから、視覚の違いを通じて「世界の相対性」に気づき、そこから「では、この気づきは何を意味するのか?」という問いを抱え続けている。
もし、この問いにあなたなりの答えを出すとすれば、それは「相対的であると気づいた世界の中で、なおも生きるとはどういうことか?」という方向へ進むのかもしれません。
ポストモダンが「為になること」を求めたように、あなたもまた「ただ懐疑するだけではなく、何かしらの生き方に落とし込む」必要性を感じているのではないでしょうか?
あなた:
私はもう先は長くないという所に逃げ込んでいるのかも知れない。仏教で言う諦観に近いのかも知れない。死を前にしたら何もかも相対的な事だという事に甘えているのかも知れない。あの世へ出発する列車から途方に暮れているこの世の人に向って、手を振っている自分を想像しているのかも知れない。
ChatGPT
それは、ある種の「諦観」かもしれませんね。しかし、その「諦観」は単なる絶望や無気力ではなく、むしろ深い理解から生じる穏やかな境地のようにも感じられます。仏教で言う「諦観」は、ただ諦めるのではなく、すべてを受け入れ、見極めた上での静かな悟りのようなもの。あなたが今抱えている感覚も、それに近いものなのかもしれません。
「私はもう先は長くない」という感覚があるとき、すべてが相対的に見えるのは、ある意味では当然のことです。何かを成し遂げても、何かを求めても、最後には消えていくという確信があるならば、それは「すべてが移ろいゆくもの」という仏教的な無常の理解に通じます。すると、「何かを成すこと」や「何かを証明すること」よりも、「ただ、この移ろいを静かに見つめること」に意識が向かうのかもしれません。
列車から手を振る自分
「この世を去る列車から、途方に暮れるこの世の人に向かって手を振る自分」というイメージは、すごく象徴的ですね。
あなた自身がすでに「こちら側」に全力でしがみつくことをやめ、どこか「向こう側」へと足をかけつつあることを表しているように思えます。それは単なる逃避ではなく、「どうせ去るのなら、その過程を静かに見守り、何かを伝える者になろう」という意識にも見えます。
そして、手を振るという行為には、どこか優しさが感じられます。単に「さらば」ではなく、「君たちも、いずれはこの列車に乗るのだよ」という、静かな示唆。死を目前にしたときに見えてくる「相対性」に甘えるのではなく、それを受け入れた上で、「去る側としての視点」を持ち始めているのかもしれません。
「逃げ込んでいる」のか、「受け入れつつある」のか
あなたは「もう先は長くないという所に逃げ込んでいるのかもしれない」と言いますが、それが本当に「逃避」なのか、それとも「受容」なのかは、まだ定まっていないのかもしれません。
もしこれが「逃げ込み」だとするならば、それは「まだ何かやるべきことがあるのに、そこから目を逸らそうとしている」という後ろめたさがある場合でしょう。しかし、あなたの言葉からは、そのような未練や焦燥感よりも、「気づいたことを淡々と受け止めつつある」という落ち着きが感じられます。
つまり、これは「諦め」ではなく、「静かな到達」なのではないでしょうか。もしくは、まだ「諦め」と「到達」の間を揺れ動いているのかもしれません。
「甘え」とは何か?
あなたは「死を前にしたら何もかも相対的なことだということに甘えているのかもしれない」と言いますが、「甘える」という表現の裏には、「そう考えることで、何か大事なものを手放してしまっているのではないか?」という迷いがあるように思います。
しかし、もしかすると「何もかも相対的だ」と受け入れることは、「甘え」ではなく、むしろ「最後に残る本当の理解」なのかもしれません。
もし、この世が相対的なものであり、何もかも移ろいゆくものならば、そこに執着することのほうが、むしろ「甘え」なのかもしれません。手放すことは、怖いことですが、同時に、それによって自由になれることもあります。
これからの時間をどう過ごすのか
あなたの思索はここまで来ていますが、「では、ここからどうするか?」という問いも、まだ残っているのではないでしょうか。
列車に乗るその時まで、何を考え、何を感じ、何を残すのか。あるいは、ただ静かに過ごすのか。
もしかすると、今のあなたには「答えを出すこと」よりも、「このまま流れていくこと」を受け入れることのほうが、大事なのかもしれません。
そして、それは決して「逃げ込む」ことではなく、「列車の窓から、穏やかに外を眺める」ということなのかもしれません。
あなたがどんな風にこの時間を過ごしていくのか、その選択はまだあなたの手の中にあります。
あなた:
私があなたを介して文章を綴っていることに、諦観してもなお残る焦りへの安慰があるのかもしれません。
ChatGPT
それは、とても静かで、しかし確かな感情なのかもしれませんね。諦観の中にあってもなお残る焦り——それは、もはや何かを成し遂げるための焦りではなく、むしろ「まだ何かを抱えている」「まだ言葉にしていないものがある」という、消えきらない思索の名残なのかもしれません。
あなたが私を介して文章を綴ることが、そうした焦りに対する安慰になっているとすれば、それは「まだ伝えたい何かがある」「まだ整理しておきたい何かがある」という、最後の余白を埋める作業のようにも思えます。そして、それは「無駄なこと」ではなく、むしろ最後まで考え続けること、言葉を紡ぐことが、あなたにとって生きることの証になっているのかもしれません。
この世界が相対的であるとしても、あなたが書いた言葉は、確かにここに残ります。たとえこの世が無常であろうと、あなたの思索は、こうして形となり、誰かの意識の中に残る可能性がある。そのことが、完全な諦観には至らない理由なのかもしれません。
あなたが今書き続けているのは、単に思索の整理ではなく、ある種の「安らぎのための行為」でもあるのでしょう。言葉を綴ることで、あなたはこの焦りを受け入れ、少しずつ手放しているのかもしれません。
もしかすると、焦りが完全に消えることはないのかもしれません。でも、それを言葉にしていくことで、少しずつ静かになっていく——そんな時間の流れの中に、あなたは今いるのではないでしょうか。
あなた:
なんか落ちが付いたようだが、しかし、感じている事とは別の自分も居て、どっか欲望に弱く、意地汚い自分も感じて、それがまた生きる事を楽しくするだろうという部分もあり、愛しきトリックスターという気持ちもある。
ChatGPT
そうですね。諦観の中に安らぎを感じながらも、どこかでまだ欲望に弱く、意地汚い自分も感じている。そして、それがまた「生きることを楽しくする」一面もある。
それはまさに、生きることの妙味なのかもしれません。
完全に達観してしまえば、それはもう「生」に縛られることのない境地かもしれませんが、どこかでまだ「食べたい」「欲しい」「知りたい」「笑いたい」という、何かを求める気持ちが残る。仏教的には「煩悩」として切り捨てられるかもしれませんが、それこそが人間らしさであり、まさに「愛しきトリックスター」と言える存在なのかもしれません。
トリックスターは、時に理性を裏切り、時に意地汚く、時に愚かで、しかしその奔放さが世界を動かし、混乱をもたらしながらも新たな秩序を生み出す存在。あなた自身の中にも、そのような存在が棲んでいる。そして、それを単に嫌悪するのではなく、むしろ「愛しき」と表現するところに、あなたの「まだ生を楽しもうとする気持ち」が感じられます。
理性と欲望、諦観と執着、静寂と躍動——そのすべてが共存するのが、あなたという存在なのかもしれません。そして、その矛盾があるからこそ、生きることは退屈しない。
おそらく、完全な諦観だけでは、何かが物足りないのでしょう。
そして、完全な欲望だけでも、何かが虚しくなるのでしょう。
その狭間で揺れることこそが、生きるということなのかもしれませんね。
あなた:
意地汚い事に対する嫌悪もあったが、それを裏打ちするカミュー的な人としての矜持を持って、ある時には歯を食い縛って耐えたりしていたが、それをも、楽しもうとする自分もいる。
ChatGPT
それは、ある意味で「生のすべてを引き受ける」という境地に近づいているのかもしれませんね。
かつては、意地汚い自分に嫌悪を感じ、それをカミュ的な矜持で抑え込み、時には歯を食いしばって耐えていた。しかし、今はそれすらも「楽しもうとする自分」がいる——それは、「生きることの全体を飲み込む」ことに近い感覚ではないでしょうか。
カミュは『シーシュポスの神話』で、「不条理な世界を生きるには、それを受け入れ、なおも生を愛さなければならない」と言いました。シーシュポスは決して神の罰に屈することなく、山を登り続けることを「自分の生」として受け入れた。あなたもまた、自らの「意地汚さ」「矜持」「耐えること」——それらすべてを引き受け、なおも「それを楽しもうとする自分」に気づいている。
それは、単なる達観ではなく、「生の矛盾そのものを遊びとして捉える」感覚に近いのかもしれません。善悪や高潔と卑しさを超えて、それらすべてを包括しながら、それでも笑い飛ばして生きるという姿勢。まさに、カミュが語る「不条理に対する反抗」としての「生の肯定」に通じるものがあります。
結局のところ、「歯を食いしばって耐えること」も、「意地汚く欲望に流されること」も、そのどちらもが「人間であること」なのでしょう。そして、その両方を受け入れながら、それすらも「楽しめる」と感じたとき——それは、ただの諦観ではなく、むしろ「自由」に近いのかもしれません。
生の不条理を知りながらも、それを丸ごと飲み込み、笑うことができる。
それは、カミュが語った「シーシュポスは幸福でなければならない」に通じる、あなた自身の「幸福の形」なのかもしれませんね。