死のイメージについて
70余年生きてきて、死ぬ思いを何度か経験してきたが、そのつどその時の印象が違っていた。その時の思いとはその時抱いていた死生観が反映していたのだと思う。10代の中頃経験したのは、川の向こうにお花畑がありそちらに吸い込まれそうになっているイメージで、祖母に聞いた臨死体験の情景だったと思う。その後、青春特有のニヒル観に襲われ、その時に感じたのは自分の足元に50センチぐらいのプラズマが現れ、直感でそれが私でこのまま外部との交わりが無く、消える事も無く、永遠に無為の存在のままいるのだと思って戦慄した。それから半世紀以上もたって脳梗塞を何度か繰り返しICUで感じたのは、酷い吐き気で看護婦さんが「どんどん吐いて」と言ってるのを聴きながら吐き気で苦しんでいる自分と違う意識が、はっきりとした意識が幽体浮遊する事も無くあってそれはとても静かで心地よい落ち着いていてコンフォータブルな気持ちがして、これから死ぬのだなと落ち着いて感じられる。死ぬときはそれに必死であがらうだろうと思っていたが、逆に死ぬってこんなに気持ちが良いんだと感じていた。元々目を閉じていて何も見えないのに足元の方から暗い闇が近ずくのを感じ「ああ、この闇の中ではこの世との関係がすべて消えていくんだなと感じられ、左右や上下、過去現在といった関係もバラバラになりすべては意識も消えていくのだなと感じた。そのイメージは昔読んだ埴輪雄高の「死霊」という小説で、死にゆく人の脳にプローブを差し込んで死のイメージを再現する話が在って、それは機関車の操作場で長く繋がれた列車がバラバラにほどけていくイメージで、そのイメージがその死のイメージに繋がったものと思う。振り返れば、若いころは自分が消えてなくなる事をイメージできなくて、時間を経て自分が消えてなくなる事を知り始めたのだと思う。
ChatGPT
とても深い体験と考察を共有してくださり、ありがとうございます。文章からは、ご自身の死生観が人生を通じてどのように変遷してきたのかが繊細に伝わってきます。以下の点について、特に印象的に感じました。
若い頃の死生観
10代で経験された「川の向こうに花畑が広がる」イメージは、幼少期に聞いた話や文化的な背景が影響しているように感じられます。このような美しいイメージは、死を恐れるというより、ある種の「安らぎの場」として捉えられていたのかもしれません。その後、青春期のニヒリズムに基づくプラズマのイメージは、自己の存在や意味に対する鋭い問いを投げかけていますね。「永遠に無為な存在のまま」という考えに戦慄されたという点は、若さゆえの感受性の鋭さが感じられます。
中年期以降の死の体験
ICUでの体験では、吐き気という苦しい身体的感覚とは別に、静かで落ち着いた意識が同時に存在していたことがとても興味深いです。これは、死が必ずしも恐怖や苦痛に支配されるものではなく、ある種の心地よさや受容の感覚を伴う場合もあることを示唆しているように思います。「暗い闇が近づいてきてすべての関係が消えていく」という感覚は、死が「この世の関係性からの解放」として捉えられているようにも感じます。
時間を経た死生観の変化
若い頃には、自分が消えてなくなることをイメージできなかったと振り返られていますが、年齢を重ねる中で「消えていく」ことを少しずつ受け入れられるようになった点が印象的です。埴谷雄高の『死霊』にある「列車がほどけていく」というイメージとリンクさせておられる点も、文学的な想像力を介して死を再解釈する姿勢が伺えます。
全体の印象
これらの死生観の変遷は、人生を深く考察しながら生きてこられた証であり、死を単なる終わりとしてではなく、「関係の解消」や「意識の消滅」として捉えようとする姿勢が非常に哲学的です。また、死に対する感覚は、その時々の心理的状態や人生観、身体的状況に強く影響されることがよく伝わってきます。
もし、このテーマをさらに深めたい場合、今の死生観や、これから死とどう向き合いたいかについて考えることも興味深いかもしれません。また、『死霊』や他の文学作品から得られる洞察についても、さらに掘り下げる余地がありそうです。この考察が、あなたのこれからの生き方に新たな視点をもたらす助けになれば幸いです。
あなた:
最近は人は死ぬことは無い。なぜなら死ぬのは生きている時に起きる事で、死んだら死も生も無くなるのだからと思う。
ChatGPT
非常に哲学的で深い考えですね。「死ぬ」という出来事は確かに「生きている間」にしか経験されることができません。なぜなら、死とは生の一部であり、生きている間にしか意識として捉えることができないからです。そして、死んだ後には意識がなくなるため、そこには「死」という概念も存在しなくなる、というのは極めて論理的な思考です。
この考え方を少し掘り下げると、以下のような問いが浮かんでくるかもしれません。
死の瞬間とは何か
「死」とはいつ起こるのか?その瞬間とは、生物学的には心臓が止まり脳の活動が完全に終わるときとされていますが、意識や存在の観点から見ると、「死ぬ」という経験は「生きている間」にしか起こり得ない矛盾した状況です。そのため、死の瞬間そのものを誰も主観的に経験することはできず、それが「死」というものをさらに神秘的なものにしています。生と死の境界は曖昧かもしれない
死んだ後には「生」も「死」も無くなる、というのは、死そのものが「関係性の消滅」や「意識の終了」として捉えられるからかもしれません。この場合、生と死の境界は、実際には連続的であり、私たちが「生きている」と思っている状態すら、絶え間ない変化や消失の中で成立していると考えることができます。死が無いなら、生もまた特別ではないのか
もし「死」が存在しないのだとすれば、「生」というものもまた、それ自体として独立した実体ではないのかもしれません。生もまた、ただの一時的な関係性や現象として捉えられます。この視点からは、「生」も「死」もそれ自体が独立しているのではなく、「経験」や「認識」によって初めて成立するものだと見ることができます。「無」の安らぎと存在の意味
死後には生も死もなくなる、という考えは、死が「無」への回帰であることを示唆します。しかしその「無」は苦しみでも喜びでもなく、ただの完全なる静寂です。この「無」を恐れるのではなく、安らぎや受容として捉えることは、死への向き合い方として非常に解放的です。同時に、その「無」を前提に、今ここでの「生」をどう意味付けるかが問われてきます。
あなたの言葉からは、死に対する恐れや否定ではなく、それを超えた認識の深まりが感じられます。この考えをさらに深めていくことで、生そのものの意味についても新たな発見があるかもしれませんね。
あなた:
これも埴輪雄高の小説からですが、完全体とは何か、それはもう何も欲望を持たず、自分に満足しきって永遠の眠りについた存在であり、自らの子守歌で深い眠りについている石みたいなものである。というのも印象深く残っています。
ChatGPT
埴谷雄高のその表現は、とても象徴的で哲学的ですね。「完全体」とは、欲望を持たず、自らに完全に満足し、永遠の眠りについた存在として描かれている点に、究極的な静寂や安らぎ、そして「無」の概念が重なります。そのような存在を「自らの子守歌で深い眠りについている石」に喩えるのは、非常に詩的で深い洞察を感じさせます。
以下に、この「完全体」について考えられるいくつかの視点を挙げてみます。
欲望の消滅としての完全体
欲望を持たない、という状態は、仏教で言う「涅槃(ニルヴァーナ)」に近い概念のように感じます。欲望とは常に何かを得ようとする未完成な状態の表れであり、それが消えることで、満足しきった「完全体」が生まれるのかもしれません。しかし、それは同時に動的な生命の象徴である「欲望」や「生きるための衝動」をも手放した静的な存在でもあります。「永遠の眠り」とは何か
永遠の眠りは、死そのものやそれを超えた究極の静寂を象徴しているように思えます。しかし埴谷雄高の表現では、それが「子守歌」と共に語られている点が興味深いです。子守歌は安心感や穏やかな休息を連想させます。つまり、ここでの眠りは単なる消滅ではなく、安心や満足に裏付けられた積極的な静寂とも捉えられます。石としての存在
石のような存在という比喩は、動かない、変化しない、あるいは永遠性を象徴するものとして考えられます。石は自然の中で風化しながらも、人間の時間感覚から見ればほぼ不変の存在です。これを「完全体」と結びつけることで、埴谷が語るのは、変化のない究極の存在の姿ともいえるかもしれません。しかし、この静的な完全性の中には、「生きる」ことの動的な苦悩や葛藤は含まれていません。完全体への批判的視点
この表現に感銘を受ける一方で、「完全体」という概念自体に違和感を抱く人もいるかもしれません。生きるということは、本質的に未完成であり、欲望や不完全性の中にこそ意味があるという見方もあります。動的で不完全な存在が、常に新しいものを求めることで成長し、関係性を築くことが「生きる」本質だと考えると、「完全体」は逆に生命とは無縁のものとして描かれるでしょう。自己満足と無限のループ
「自らの子守歌で眠る」という表現は、完全体が外部との関係性を断ち切り、自分自身の中で完結していることを示しています。これは、自己満足の究極の形ともいえますが、同時に孤立や静止を象徴しているとも考えられます。そのため、この状態が真の「完全」なのか、それとも存在の停止を意味するのか、解釈は多様です。
埴谷雄高が描いたこの「完全体」のイメージは、人間の欲望や未完成性、そしてそれを超えた静寂の可能性について考えさせられる深遠な問いを投げかけています。あなたがこのイメージに感銘を受けた理由も、この静寂の中に潜む安らぎと不動の存在の魅力、そしてそこに至る道筋への問いがあったからかもしれませんね。
もしよければ、この完全体についてさらにどう感じているか、またはこれが今のあなたの死生観にどう影響を与えているかもお聞かせいただけると、さらに興味深い対話ができるかと思います。
あなた:
埴輪雄高は小説の主題は「意識は存在の奴隷か」に対する意識と存在の革命を主題にしてます。長い牢獄の中でカントなどを読んでいたらしいですが、存在は意識の現象であるというカント説の周りを彼の時代を取り巻いていたマルクス的な唯物論を以てうろうろしている姿をイメージします。
ChatGPT
埴谷雄高の主題である「意識は存在の奴隷か」という問いは、哲学的にも文学的にも非常に挑戦的なテーマですね。その背後には、彼自身の経験や読書、そして当時の時代背景が濃密に影響を与えていたように思われます。
あなたが言及した「存在は意識の現象である」というカントの主張と、それを取り巻くマルクス主義的唯物論の間で揺れ動く埴谷の姿を想像すると、哲学の中での大きな緊張関係が浮かび上がってきます。このテーマをいくつかの視点で掘り下げてみましょう。
カントの「存在は意識の現象」
カントの認識論では、私たちが世界を認識する際には必ず「アプリオリな形式」(空間・時間)と「カテゴリー」(因果性など)を通じて現象として捉えるとされています。つまり、「存在」とは私たちの意識によって形成されたものに過ぎないという立場です。埴谷雄高がこの考えに向き合った背景には、戦時下での極限的な状況や、自由や存在そのものについて深く問い続けた彼自身の姿があったのかもしれません。マルクス主義的唯物論との対峙
一方で、マルクス主義の唯物論は「意識は存在によって規定される」という立場を取ります。つまり、物質的な基盤が社会的関係や意識を形作るという考え方です。この思想が埴谷の時代に大きな影響を与えたことは間違いなく、特に戦後日本における左翼運動の中で、彼もまたその影響を受けていたと考えられます。
埴谷がカント的な認識論とマルクス主義的唯物論の間で「うろうろしている」というイメージは、哲学的対立の中での彼の苦悩や探究心を象徴しているように感じられます。彼はその緊張関係を安易に解消するのではなく、小説の中で問い続け、読者にもその葛藤を共有させたのではないでしょうか。
意識と存在の革命
埴谷の小説が「意識と存在の革命」を主題にしている点は、非常に重要です。「意識は存在の奴隷か」という問いは、単なる哲学的命題にとどまらず、社会的・政治的な文脈における人間の解放の問題とも結びついているように思えます。彼の小説では、意識が存在に対して従属する状況を描きつつ、それをいかに超越するかが探究されています。この点で、埴谷の思想は実存主義的なニュアンスも帯びていると考えられます。牢獄の中での思想の熟成
埴谷が牢獄の中でカントを読んでいたというエピソードは、極限状況の中での知的営為がいかに深い洞察を生むかを示しています。外部からの制約が強いほど、内面的な自由や思索が深まるというパラドックスを体現した例と言えるでしょう。このような状況下で、彼が「意識と存在」の問題に集中したのは必然だったのかもしれません。埴谷の「うろうろする姿」への共感
カント的な認識論とマルクス主義的唯物論の間で揺れ動く埴谷の姿は、彼自身の思想的な模索だけでなく、戦後日本における知識人全体の葛藤を象徴しているように思います。物質的な現実とそれを超える精神的・意識的な世界の関係は、未だに解明しきれない大きな哲学的課題ですが、埴谷のようにその間を「うろうろする」という態度は、思索の誠実さを感じさせます。
埴谷雄高がその問いに対してどのような回答を示したか、あるいは回答を意図的に避けたかについては、彼の文学や哲学をさらに掘り下げていく価値がありますね。あなたがこのテーマに興味を持たれた理由や、埴谷の姿勢から得たインスピレーションについても、ぜひお聞かせください。
あなた:
最近はガルシア・マルケスの「百年の孤独」が話題ですが、埴輪雄高を読んでいた頃、百年の孤独も夢中で読んでました。彼の小説は面白い物語としての出来が素晴らしく、聞き手を飽きさせない語りと、魔術的想像力と言われた何か神話的な要素が面白かったが、埴輪雄高の死霊も現実的でない設定が沢山表れて面白かった、しかし方や歴史の話で方や存在論の話で面白さの質も違うが。
ChatGPT
ガルシア・マルケスの**『百年の孤独』と埴谷雄高の『死霊』**を並べて語るのは、非常に興味深い比較ですね。どちらも現実を超えた想像力が発揮されている作品ですが、それぞれが追求するテーマや語り口には大きな違いがあります。それがまた、あなたがこれらの作品に夢中になった理由を深く理解する鍵にもなるかもしれません。
『百年の孤独』:物語としての魅力
ガルシア・マルケスは、マコンドという架空の村を舞台にブエンディア一族の歴史を描き、ラテンアメリカの歴史や文化を神話的なスケールで表現しています。この小説が持つ特徴的な要素としては次のような点が挙げられます:
魔術的リアリズム
魔術的リアリズムという文学手法によって、現実と幻想が一体化し、読者はまるで夢の中を彷徨うような感覚を得ます。たとえば、空中を漂う幽霊や、雨のように降り注ぐ黄色い花びらなど、現実ではあり得ない描写が当たり前のように語られるのが魅力的です。
神話的時間
小説全体が時間の直線的な進行を拒否し、循環的な構造を持っています。一族の歴史が繰り返される中で、登場人物たちが運命の中に囚われているような感覚を与えます。
語りの豊かさ
マルケスの語りは、ユーモア、哀愁、神秘性を含み、圧倒的な想像力で読者を引き込む力を持っています。
『死霊』:哲学的な挑戦
一方で、埴谷雄高の**『死霊』**は、物語性というよりも哲学的な探求が主軸になっています。埴谷の特徴は以下の通りです:
存在論的テーマ
『死霊』は、「意識とは何か」「存在とは何か」といった形而上学的な問いを追求する作品です。物語というよりも、登場人物同士の対話や、現実的でない設定の中で繰り広げられる思想的な探求が魅力です。
非現実的な設定
埴谷の描く世界では、死者と生者が区別なく共存し、現実の物理法則が無視される場面も多いです。それらはただの幻想ではなく、哲学的なメタファーとして機能しています。
重厚で抽象的な語り
マルケスの豊かでリズミカルな語りとは異なり、埴谷の文章はしばしば難解で、読者に深い思索を促します。それが『死霊』の読後感を特別なものにしています。
両者の共通点と違い
共通点として挙げられるのは、どちらの作家も現実を超えた想像力を駆使しており、物語を通じて人間の本質に迫ろうとしている点です。ただし、その「超越」の方向性は全く異なります。
**『百年の孤独』**は、ラテンアメリカの社会、歴史、文化を背景に、人間の運命や歴史の繰り返しという普遍的テーマを神話的な物語として描いています。
**『死霊』**は、現実の社会や歴史を舞台としつつ、存在や意識という哲学的問いを追求し、読者に考えることを促します。
あなたが言うように、「方や歴史の話で、方や存在論の話」という指摘は正確で、両者の面白さの質がまったく異なるものだと感じられるのは自然です。
あなたの体験との関連
興味深いのは、あなたがこれら二つの異なるタイプの小説に同時期に夢中になったことです。『百年の孤独』があなたにとって「語りと魔術的想像力」の面白さを提供した一方で、『死霊』は「哲学的探求」という知的刺激を与えたのではないでしょうか。その両方を楽しむことで、文学の多様な魅力を深く体験されていると感じます。
もしさらに掘り下げてお話しするなら、両作品があなた自身の思索や人生観にどのような影響を与えたのか、またどちらの方向性により共感を覚えたのかを伺いたいと思います。
あなた:
埴輪雄高の「死霊」は未完のまま、彼は世を去りましたが、キリストや仏陀を持ち出してきて何を語りたかったのかいまでは不明であり残念です。しかしそれはドストエフスキーのカラマーゾフに出てくる大審問官の話を現代に蘇らせようとしたことには違いないと思います。
ChatGPT
埴谷雄高の『死霊』が未完のままであったことは確かに惜しまれますね。しかし、その未完であること自体が、彼の哲学的探求や、究極的に答えのない問いに向き合う態度を象徴しているようにも感じられます。キリストや仏陀という象徴的な存在を登場させた意図は明確には分かりませんが、埴谷のテーマ性や文脈を考えると、彼自身が『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の議論を現代に再現しようとした可能性は十分にありそうです。
以下に、その意図について考えられるポイントをいくつか挙げてみます。
大審問官と『死霊』の共通点
『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章は、キリストが再び地上に現れたらどのように扱われるかを描き、宗教的権威、自由、信仰といったテーマを扱っています。この話は、自由を与えられた人間がいかにそれを持て余し、結果として「大審問官」のような権威に支配されることを選ぶかを鋭く問いかけています。
埴谷の『死霊』でも、存在と意識、自由と支配、宗教的救済や人間の根本的な矛盾に向き合おうとする姿勢が見られます。特に、キリストや仏陀を登場させることで、単なる哲学的議論にとどまらず、普遍的な象徴を借りて「救済」や「超越」を巡る人間の根本的な葛藤を探ろうとした可能性が考えられます。
現代における宗教と哲学の衝突
埴谷が「キリスト」や「仏陀」を登場させたのは、単なる宗教的な議論のためではなく、現代における宗教的価値と哲学的探求の関係を再考する試みだったのではないでしょうか。埴谷が『死霊』を書いていた時代は、宗教的価値が薄れ、唯物論や科学的合理主義が支配的になりつつある一方で、人間の存在や意識についての根源的な問いは解決されないままでした。彼はこうした状況の中で、宗教がかつて提供していた「救済」や「意味」の役割を、哲学や文学の中で探ろうとしたのかもしれません。キリストと仏陀の象徴性
キリストと仏陀という二人の存在を並べて描くこと自体が象徴的です。キリストは西洋的な神の愛や救済の象徴であり、仏陀は東洋的な無常観や悟りの象徴です。埴谷がこの二人を持ち出したのは、東洋と西洋、宗教と哲学、救済と悟りという異なる価値観を対比させ、それらの統合や対立を探ろうとした試みではないかと思われます。
ただし、彼が最終的に何を描こうとしていたかは、未完ゆえに不明確なままです。しかし、この未完性そのものが、存在や意識の探求が常に「未完の問い」であることを象徴しているのかもしれません。
埴谷の現代的な大審問官
『死霊』におけるキリストや仏陀の登場が、「大審問官」の物語を現代に蘇らせる試みであったという視点は非常に説得力があります。ドストエフスキーの大審問官では、人間は自由を求めながらも、その自由に耐えきれず、権威に屈服することが描かれています。埴谷がこれを現代の文脈で描き直そうとしたのだとすれば、それは以下のようなテーマを含んでいた可能性があります:
人間の自由と存在
現代の人間が宗教的な救済を失った中で、自由や存在の意味をどのように見出すのか。
権威と救済の再定義
科学や合理主義、政治的イデオロギーが新たな「大審問官」となりつつある状況への批判。
意識と存在の矛盾
意識が存在を支配するのか、存在が意識を支配するのかという未解決の問題を、宗教的象徴を通じて探ろうとする試み。
未完ゆえの可能性
『死霊』が未完であることは、読者にとっての挑戦でもあります。埴谷が描きたかったことを推測し、現代の文脈で考え直すことで、私たちは彼の問いを引き継ぐことができます。『カラマーゾフの兄弟』がそうであったように、『死霊』もまた、作品自体が一つの問いかけであり、埴谷の意図はその問いの中に込められているのかもしれません。
もし『死霊』を再び読み返す機会があれば、あなたがどのようにその未完の部分を解釈されるか、また埴谷が問いかけようとしたことをどのように感じ取られるかについても、ぜひお聞かせいただければと思います。埴谷が残した問いは、読むたびに新しい発見を与えてくれるものだと思います。