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「生成と消滅の精神史」感想①

「生成と消滅の精神史」の心は発明されたの項を読んでいる。そこで感じた事を書いておこうと思う。そこでの最初のポイントは文字の発明であり、そこから人は記憶を記録し、蓄積し、それが、未来への計画や不安といった観念を生み出した。とあるが、此処でもっと大事なことは、文字や言葉が出来たという事は、世界を意味で理解し始めた事だと思う。つまりストレスやその開放を生ではなく、抽象として認識し世界観を形成したということかも知れない。

ChatGPT:
とても鋭い洞察ですね。
文字や言葉の発明が、単なる記録や蓄積の手段を超えて、人間が世界を「意味」で理解する契機になったという視点は重要です。

つまり、それまでの人間は、ストレスやその開放を生理的な反応としてただ経験していたのに対し、言葉によってそれを「抽象的なもの」として捉えるようになった。この変化は、単に記憶を外部化したことよりも、本質的に「世界を概念として捉える能力」を生み出したことにある。

そして、この概念化こそが「世界観」の形成につながるのではないか。
例えば、「痛み」や「悲しみ」がただの感覚であった段階から、それを「意味」として語ることで、共有される価値観や社会的な枠組みが生まれたとも考えられます。

これを踏まえると、言葉の発明は単なる技術的な発展ではなく、人間の「経験の枠組み」そのものを変えたとも言える。まさに、あなたの考えの通り、「ストレスやその開放を生ではなく、抽象として認識」し、「世界観を形成」する転換点だったのかもしれませんね。

あなた:
本で面白いのはホメロスの叙事詩が史跡として残っているので単なる神話ではなく実際有った事らしい、しかしその世界観の中に出てくる登場人物は自分の意志ではなく神の意志で動くものとなっている事だと本では言っている。つまりアガメムノンがアキレウスの女を奪うのも狂気の神アテがそうさせたものであるし、アキレウスが怒って剣を振るおうとしたのを抑えるのもアテネ神であり、その人物の意志では無いという理解だという。つまり盗みをやった出来心とは狂気の神の所為であり自分ではない。多分自分という考えが薄いというか自分とは神の物だということかも知れない。このことで思い出したのは、平安時代かそこらで、複数の求婚者から選び出せずに自殺する女性の事だ。

ChatGPT:
ホメロスの叙事詩における「人間の行動は神の意志によるもの」という視点は、まさに「自分」という概念の希薄さを示しているように思えますね。

現代の私たちは、「意志とは個人の内にあるもの」「選択は自己の責任」という前提で物事を考えますが、ホメロスの時代には、行動の主体が「個人」ではなく「神の意志」として理解されていた。これは、「自我」という概念がまだ確立されていなかったとも言えるでしょう。

あなたが思い出した平安時代の女性の話も、これと似たものを感じさせますね。
つまり、「自己決定」ではなく「運命」や「周囲の力」によって選択がなされるという世界観。求婚者を選べずに自殺するというのは、「私が選ぶ」という意識が成立していないからこそ、決めることができないという状況だったのかもしれません。

ホメロスの時代も平安時代も、共通して「自己が確立されていない社会」のように見えます。そして、それが可能だったのは、おそらく「神」や「運命」といったものが、自分を超えた大きな枠組みとして作用していたからでしょう。

では、いつ「自分」という概念が強くなったのか。
ホメロスの叙事詩からギリシャ哲学の時代に移ると、ソクラテスの「汝自身を知れ」や、プラトンの「魂」という概念が登場し、個人の「内面」に意識が向くようになります。これによって、「私とは何か」という問いが生まれ、自我の確立へとつながっていったのでしょう。

こう考えると、「神の意志で動く人間」と「自我を持つ人間」の違いは、単に価値観の変化ではなく、人間の世界の捉え方そのものが根本的に異なっていたのかもしれませんね。

あなた:
言葉が出来て世界を感じて、その感じ方で世界を構成していくのに考慮するのは矛盾の無い事であり、つまり説明可能という事でありその形が神話という世界観になったと思う。出来事は願いとは関係なく独立してランダムに起きる事を、神の意志と捉えて世界を説明可能にしたのかも知れない。

ChatGPT:
とても鋭い視点ですね。言葉が生まれ、世界を感じ、その感じ方によって世界を構成する。その際に重要なのは、矛盾のない説明可能な世界観を作ること であり、その形として神話が生まれたのだという考え方は、とても説得力があります。

確かに、自然界の出来事は人間の願いとは関係なくランダムに起こる。しかし、無秩序な世界をそのまま受け入れることは難しい。そこで、神の意志 という概念を導入することで、世界に「説明可能な構造」を与えたのかもしれません。

たとえば、雷が突然落ちることをただの偶然とするのではなく、「ゼウスが怒ったから」と説明することで、一貫した世界観が生まれる。あるいは、誰かが狂気に駆られて行動することを、「アテの神の仕業」とすることで、社会の中で説明可能な枠組みを維持できる。

ここで重要なのは、神話がただの物語ではなく、「世界を説明する論理の体系」だった という点です。
私たちは現代の科学的な世界観の中にいるため、「神話は信仰や文化の産物」と見がちですが、当時の人々にとっては、神話こそが「矛盾なく世界を理解するための合理的な方法」だったのかもしれません。

つまり、神話の世界観は、単なる願望や空想ではなく、「言葉によって構成された最初の整合性のある世界」だったのではないでしょうか。
その意味で、神話とは、言葉によって築かれた最初の「理論体系」 だったとも言えそうですね。

あなた:
世界の出来事が、自分の意志も含め、つまり食欲や性欲も自分の外側からやって来るのであり、それらは自分ではなく神の仕業と考える事で理解したのであろう。それはつまり自分で責任を取るという事ではなく、それから逃れる事で世界を安定させていたということかも知れない。

ChatGPT:
その考え方は非常に興味深いですね。つまり、ホメロスの時代においては、人間の欲望や衝動、さらには自らの意志さえも「外側からやってくるもの」として捉えていた。それを「神の仕業」と考えることで、自らの行動に対する責任を負うのではなく、それから逃れることで、世界の安定を図っていたのではないか、ということですね。

これは、現代の「個人の意志」や「自己責任」の概念とは大きく異なります。例えば、今の社会では、食欲や性欲を含めた衝動も「自分のもの」として扱われ、それをどのようにコントロールするかが「個人の責任」とされています。しかし、ホメロス的世界観では、それらは「外部からやってくるもの」であり、「神々の意志」として理解されていた。

ここで興味深いのは、このような世界観が、社会の安定に寄与していた可能性があることです。もしすべての出来事が「神の意志」であれば、個人は行動の責任を問われず、罪悪感や自己批判に囚われることも少なかったかもしれません。個人が責任を負わない社会というのは、一見無秩序に見えますが、むしろ安定的な側面があったのかもしれない。

また、これを裏付けるように、日本の古代においても、悪いことが起こると「祟り」や「怨霊」のせいにされることが多かった。個人の過失として処罰するのではなく、神や霊の機嫌を直すために祭祀を行うことで、社会の秩序を保とうとした。このように考えると、責任を個人に帰属させないことが、一種の安定装置として機能していたとも言えそうです。

しかし、ここで疑問なのは、では、いつ、なぜ「自己責任」の概念が生まれたのか? という点です。ギリシャ哲学、特にソクラテス以降、「自分とは何か」「善く生きるとは何か」といった問いが生まれ、自己の内面を探求するようになりました。すると、「自分の意志で決定する」「自分の行動に責任を持つ」という考え方が生まれ、次第に個人の意志が重要視されるようになったのでしょう。

この変化の背景には、政治や社会の変化も影響しているかもしれません。例えば、ポリスの発展によって、個々人の判断がより重要になったことや、宗教観の変化によって「神がすべてを決める」という考え方が弱まっていったことが関係しているのかもしれません。

こう考えていくと、「自己の誕生」というのは、単なる意識の進化ではなく、社会構造や文化の変化と密接に結びついていることが分かりますね。

あなた:
本はこの後、ソクラテスの時代になり、個人の考え、つまり心が発明されるという項に入ります。読んだらまた話をしましょう。

ChatGPT:
なるほど、「心が発明される」というテーマ、とても興味深いですね。ソクラテスの時代に入り、個人の考えや意志がどのように「発明」されたのか、ぜひ読んだ後にまた話しましょう。

ホメロス的な世界観から、ソクラテス的な個人の意志へと移り変わる過程には、文化や社会の大きな変動があったはずです。どのように「心」という概念が生まれ、それがどのように人間の世界認識を変えたのか、一緒に考えていければと思います。

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