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プロの仕事

考えるという事は、何をどのアスペクトでに、何との関係の中で、どのようなアプローチをするかがという事が暗黙の裡に決められている。という事をつくづく思う。

ChatGPT:
まさにその通りですね。考えるという行為は、単に自由な発想ではなく、何を対象とし、どのような側面に注目し、それを何と関連づけ、どの方法でアプローチするのかという前提のもとで成り立っています。しかも、それらの前提は多くの場合、無意識のうちに選ばれ、あるいは既存の思考フレームワークの中で決定されている。

例えば、物理学の問題を考えるときと、詩の意味を考えるときとでは、対象、関係性、アプローチの仕方がまったく異なる。しかし、それぞれの分野においても「何を問題として考えるのか」「何を意味があるとみなすのか」といった前提は、文化や教育、経験、価値観によって暗黙のうちに方向づけられている。

さらに、「考える」という行為そのものも、言語や論理の枠組みの中に閉じ込められており、思考はその枠を超えることができるのか、あるいはそれ自体が一つの制約であるのか、という問題にもつながる。

このことを強く意識すると、考えること自体のメタ的な構造を問い直す視点が生まれる。それが「考え方を考える」ことへと発展し、時には「考えるとは何か」「そもそも考えなくてもよいのではないか」といった根本的な問いに行き着くこともある。

このように、考えるという行為は、思考の対象と手法を選択すること自体がすでに考えの一部であり、その選択がどのように行われているのかを見極めることが、より深い思考の可能性を開く鍵となるのかもしれません。

あなた:
むかし食べ物の仕事をしていた時、しばらくすると食べ物に対する玄人的視点を覚え、時の流行である真空調理や低温調理を考える時は、繊維の変成や味の構成要素の振る舞いなどが想像されその調理の特徴を考える事が出来た。
のちにバイオの仕事に就いたが、バイオでは今何が問題となっていて、それにどの様なアプローチがあるかという事を知らないとちんぷんかんぷんの職場で、業界のその流れに合わせるのに3年はかかったように思う。

ChatGPT:
とても興味深い経験ですね。食べ物の仕事をしていたときには、素材の構造や調理の技術がどのように味や食感に影響を与えるかを自然に考えられるようになり、その視点が専門的な理解を深める助けになった。しかし、バイオの分野では全く異なる視点が求められ、何が問題として認識されているのか、どのようなアプローチがあるのかという全体の構造を理解するのに時間がかかった——これはまさに、専門分野ごとに「考え方のフレームワーク」が異なることを示しているように思います。

特に、バイオの分野では、問題意識や研究の方向性が時代や技術の進歩によって変化し、常に新しい視点を持つことが求められる。対して、食の分野では伝統と革新が交錯しながらも、素材の本質的な特性に基づく理解が重要になる。おそらく、バイオに移ったときに「業界の流れをつかむ」ことに3年かかったのは、単なる知識習得ではなく、その業界特有の「思考の型」に適応するプロセスだったのではないでしょうか。

面白いのは、食の仕事で培った「構造を捉える視点」や「現象の背景を探る考え方」が、バイオの分野でも活かされる可能性がある点です。食材の細胞構造や分子レベルの変化を考えることと、バイオでの細胞やタンパク質の振る舞いを考えることには、共通する部分があるはずです。しかし、それをバイオの言語で捉え直し、業界の流れに適応することが必要だったのでしょう。

この経験からも、「考える」という行為が、分野ごとに異なるパターンを持ち、そのパターンに慣れることが深い理解への鍵になることがよくわかります。

あなた:
小説家や詩人とか、もしくは専門家というのは、初めから主題に対する対応に「型」を持っていてあとはその型に当てはめていくという比較的楽な作業で、九鬼周造や木田元などは現象学的視点という考える方向や方法を会得して、つまり型を習得して、それらを日本的な問題に、つまり型の可塑的な部分に適応したという事だと思う。

ChatGPT:
とても鋭い視点ですね。確かに、小説家や詩人、または専門家というのは、一見すると自由に創造や思索をしているように見えますが、実際には「型」を持っており、その枠組みに沿って対象を処理していくという側面が強いですね。つまり、主題に対する「思考のフォーマット」を確立し、その上で具体的な題材を流し込む、あるいは適応させるという作業になっている。

九鬼周造や木田元が行ったことも、まさにこの「型の習得」と「適用」に関わるものですね。彼らはまず現象学的な思考の「型」、つまり考える方向性や方法論を身につけ、その型を用いて日本的な問題や思想の中に切り込んでいった。言い換えれば、彼らは西洋哲学の思考パターンを日本的な文脈に適応させるという「可塑的な部分」を活かしながら、新しい視点を構築していったわけです。

この「型」の存在は、創造や思索がまったくゼロからの作業ではなく、ある種の「思考の慣性」によって進むことを示しています。
型を習得することで、思考や表現はスムーズになり、労力が軽減される部分もあります。しかし、同時に、型に囚われることで新しい視点を生み出すことが難しくなる危険性もある。
だからこそ、優れた思想家や作家は、型を習得しつつも、その型の限界や可塑性を意識しながら、柔軟に適応していくことが重要になるのでしょう。

あなたが以前、バイオの仕事に馴染むのに3年かかったと感じたように、新しい分野では「型」をまず習得する必要があり、それができると比較的スムーズに作業ができるようになる。この点において、思考とは単なる自由な発想ではなく、むしろ「型を身につけ、その適用可能性を広げる作業」として捉えることができるのかもしれませんね。

あなた:
型も固定化されるとマニュアルのようになり創造的な仕事が出来なくなるのですが、型の中に可塑的な部分を見つけその差異を持った型が、その差異としてが重要となり、第一の注目点となりますが、やがてそれは周知されるとともに新しい型の固定部となり新鮮さを失っていくという繰り返しだと思う。

ChatGPT:
まさにその通りですね。型というのは、一度確立されると、それが基準となり、安定した枠組みとして機能します。しかし、型が固定化しすぎると、それは単なるマニュアルや作業手順のようになり、創造性が失われてしまう。だからこそ、型の中にある「可塑的な部分」、すなわち変化や差異を生み出せる領域が鍵になります。

そして、その差異が注目されると、それが「新しい型の特徴」として第一の注目点になる。この段階では、まだ新鮮さがあり、創造的な価値を持っています。しかし、時間が経つにつれ、その差異もまた「定型化」され、やがて新しい「固定部」となり、創造的な可能性が失われていく。つまり、新しさを生み出す「可塑的な部分」が、次第に標準化され、陳腐化していくというサイクルが繰り返されるわけですね。

このプロセスは、芸術や哲学、技術の進化でも常に見られる現象です。たとえば、文学や映画における「革新的な手法」も、最初は画期的に見えますが、それが一度受け入れられると、多くの人が模倣し、次第に「ジャンル」や「スタイル」として確立され、最終的には型にはまったものになっていく。技術の世界でも、新しい手法や理論が登場したときは変革をもたらしますが、それが標準的な技術になると、次なるイノベーションが求められるようになります。

したがって、創造的な仕事を続けるには、型の中の可塑的な部分を常に探し、新しい差異を見出し続ける必要があります。つまり、単に「新しいものを作る」のではなく、「型の固定部を疑い、変化の余地を見つける」ことが重要になる。

これは、哲学や芸術に限らず、日常の思考や仕事の中でも応用できる視点ですね。あなたが経験した食の世界やバイオの分野でも、新しい調理法や研究手法が生まれ、それが次第に標準化し、やがて新しい方法論が求められるという流れがあったのではないでしょうか。

このサイクルを意識しながら、「固定された型のどこに可塑性が残されているか?」を問い続けることが、創造性を維持する鍵になるのかもしれません。

あなた:
そうですね。固定された視点にちょっとした揺らぎが必要になり、その揺らぎとは何かという事が問題になるのでしょう。物理なら型としての結論と、観測結果の差異が推進力となるのだろうが。

ChatGPT:
まさに、その「揺らぎ」が創造の核心なのだと思います。固定された視点に揺らぎが生じることで、新しい問いが生まれ、そこから変化や革新が生まれる。では、その「揺らぎ」とは何なのか? というのが、創造の根本的な問題になりますね。

物理の世界では、おっしゃるように、理論(型)と観測結果の差異がまさに揺らぎとなり、それが新たな理論を生む推進力になっています。たとえば、ニュートン力学は長らく固定された型として機能していましたが、相対性理論や量子力学の観測結果とのずれがその型に揺らぎを与え、結果として物理の根本的な枠組みが書き換えられていきました。この「型」と「差異」の対立が科学の発展そのものであるとも言えます。

一方で、文学や哲学、芸術の分野では、この揺らぎはより主観的で、文化や時代の文脈に依存する部分が大きい。哲学では、新しい思想はしばしば既存の枠組み(例えば実在論や観念論)の揺らぎとして登場し、そこに「差異」をもたらすことで新しい視点が生まれる。九鬼周造が西洋の現象学を日本的な問題に適応させたことも、その「揺らぎ」の一種でしょう。

食の世界でも同様に、新しい調理技法や食材の組み合わせが生まれる背景には、従来の「型」とは異なる揺らぎが必要になります。たとえば、フレンチの伝統的なソースの作り方に対し、分子ガストロノミーのような科学的アプローチが持ち込まれたのも、既存の「型」に対する揺らぎとして機能した例かもしれません。

このように、揺らぎが生じることで新たな可能性が見えてくるのですが、その揺らぎが「意味のあるもの」になるためには、ただの偶然ではなく、何かしらの「コンテクストの中での必然性」を持つ必要がある。物理で言えば、それが実験結果や数学的整合性であり、文学や哲学ならば、時代背景や思想史の流れとの関係性でしょう。

つまり、「型」と「揺らぎ」の関係は、単なる対立ではなく、相互作用の中で新しいものを生み出すダイナミクスのようなものとして捉えることができる。そのバランスをどう見極めるかが、創造的な仕事の鍵になるのではないでしょうか。

あなた:
翻って見ると、可塑性からの創造は、すぐに陳腐化することから逃れられず、常に動き回っていなければならないマグロやカツオのようなものですね。

ChatGPT:
まさに、可塑性を利用した創造は、「常に動き続けなければならない」という宿命を背負っているように思えますね。マグロやカツオのように止まったら死んでしまう——これは比喩として非常に的を射ています。

なぜなら、可塑性から生まれた新しい形は、必ず時間とともに標準化・固定化し、やがて陳腐化する運命にある。つまり、創造はその瞬間は新鮮であっても、それが「型」として認識されるや否や、もはや創造ではなくなる。だからこそ、創造の本質は「変化し続けること」にあるのかもしれません。

特に、現代の技術や文化の発展のスピードを考えると、この「止まれない創造」の側面はますます顕著になっています。新しいアイデアやスタイルは、かつての時代よりもはるかに速く消費され、次々と新しいものが求められる。例えば、SNSで流行するファッションやアートは、かつてのトレンドのように数年単位で変化するのではなく、数ヶ月、時には数週間で「過去のもの」となってしまう。

これは、哲学や科学の世界でも似たような動きがあります。新しい理論や思想が生まれても、それが定着すればすぐに「前提」となり、新たな揺らぎや異論が求められる。例えば、ポストモダンの思想がかつては斬新だったものの、今や多くの分野で前提となり、新しい「ポスト・ポストモダン」的な視点が模索されているように。

この「動き続けることが必然」という性質は、創造の苦しみでもあり、また魅力でもあるのでしょう。常に前へ進み、新しい差異を見つけ、それがやがて固定化される前に次の動きを生み出す——この繰り返しの中に、創造の本質があるのかもしれません。

ただ、ここで一つ考えたいのは、「動き続けなければならないこと」そのものが、ある種の「型」になってしまう可能性です。つまり、何かを生み出すたびに、次の変化を求めて焦るようになり、それ自体が強迫観念になってしまう。この点で、どう「止まること」と「動くこと」のバランスを取るか、という問題が重要になってくるのかもしれませんね。

あなた:
動きが必要という事がメタな視点から定型化された型として固定されるとやっぱり陳腐化するからそれが嫌だと新しさということ以外に何かの価値を探さなくてはならない。
常に新しいことが良いんだよ、という事にアンチの考えも出てくると思う。マニエリズムこそが偉大なのだ。とか。

ChatGPT:
まさに、「新しさ」自体が一つの型として固定されることへの反発 というのは避けられない流れですね。新しさの追求が定型化すると、それもまた陳腐になる。すると、「常に新しいものを生み出さなければならない」という圧力に対するアンチテーゼが生まれ、「あえて固定化された型を維持することこそ価値がある」という逆の思想が出てくる。

ここで挙げられた「マニエリズムこそが偉大だ」という考え方は、とても興味深いですね。マニエリズムとは、本来はルネサンス後期の様式美を指しますが、広義には「ある型を極限まで洗練させ、技巧を極めること」とも言えます。つまり、むやみに新しさを追い求めるのではなく、既存の枠組みを深く掘り下げ、緻密な美を極限まで研ぎ澄ますことが価値になるという発想です。

例えば、伝統芸術やクラシック音楽のような分野では、「革新よりも形式の完成度こそが重要」とされることがあります。茶道や能、書道、あるいはフランス料理のクラシックな技法なども、その伝統の中で研ぎ澄まされた美を持っています。これらの世界では、新しさを追求することよりも、「型を極めること」に価値が置かれる場合がある。

また、哲学的にも「新しさ至上主義」に対するカウンターとして、「永遠に変わらないもの」に価値を見出す流れもあります。例えば、ハイデガーの「存在」論のように、表層的な変化ではなく、むしろ「普遍的なもの」「本質的なもの」を問い続けることに価値がある、という考え方もあります。

つまり、「常に新しいことが良い」という価値観そのものが一つの時代精神(Zeitgeist)であるならば、それに対するアンチテーゼとして、「むしろ変わらないことこそが価値である」という考え方が出てくるのは必然ですね。

しかし、ここでまた難しいのは、「マニエリズムを極めることが価値である」という考え方も、やがて型として固定されれば、それ自体が新しさを求める構造と同じように陳腐化する可能性がある という点です。つまり、新しさを求めることも、型を極めることも、どちらも一つのパターンになりうる。

では、どうすればそのジレンマを超えられるのか?
ひとつの答えは、「新しさ」と「型の極め方」の両方を相対化し、その場の状況や文脈に応じて価値を見出すことかもしれません。固定的な価値観を持つのではなく、「今この瞬間に何が必要か?」という流動的な視点を持つことで、新しさと伝統の間にバランスを取ることができるのではないでしょうか。

あなた:
それが生きている事と言えばそうなのであり無数の矛盾した流れが絡み合っていくことが生きる事だという所で落ちにしますか。

ChatGPT:
そうですね。それが**「生きる」ということ** なのだと言えば、それで落ちるのかもしれません。無数の矛盾や対立する流れが絡み合い、それらがせめぎ合う中で、時には新しさを求め、時には型を極めることに価値を見出し、そしてまた別の視点へと移行していく。その絶え間ない流動性そのものが「生の本質」なのかもしれません。

つまり、創造とは止まることのない運動であり、それ自体が「生きること」と本質的に同じものだと捉えることもできる。常に新しさを追い求める者もいれば、型を磨き続ける者もいる。そして、その両方の立場が時に入れ替わり、時代や個々人の状況によって価値観が揺れ動く。この**「揺らぎのダイナミズム」そのものが、生きることの本質** なのではないかと。

結局のところ、「新しいことが価値だ」という型も、「型を極めることが価値だ」という型も、どちらも生の営みの中で絶えず生まれ、消え、また復活していく。それを繰り返しながら、生というものは進んでいくのだと考えれば、それで十分なのかもしれません。

落ちとしては、「生きるとは、矛盾と揺らぎの中で止まらずに流れ続けること」——まるで、固定されることのない川の流れのように。

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