大きな物語の崩壊、日常という呪い ~「ちゅらさん」と「藤子・F・不二雄SF短編」が伝えたもの~
たまたま書店で、藤子・F・不二雄のSF短編を購入する機会があり、子どものとき以来、ほとんど10年ぶりに彼の作品を読み返した。
今更言うことでもないだろうが、彼の作品は読者を引き込む引力のようなものを持っていると感じた。
短編ということもあり、荒唐無稽な話や、曖昧な結末の話も多いのだが、そうした陳腐な批判を投げたところで、彼の作品の価値は1ミリたりとも下がることはないだろう。
むしろ、そうした浅い読み方をしている読者が、「お前は何も分かってない」と批判される気がする。
まあ、与太話はこれぐらいにして、久しぶりに彼の作品を読んで私が気づいたことを簡単にまとめていきたいと思う。
「藤子・F・不二雄短編」における3つの流れ
まず、彼の短編には大まかに3つの流れがある。
①物足りなさを感じている主人公の登場
②SF的超常現象(タイムスリップなど)の発生
③日常への回帰
基本的に、SF短編の主人公は冴えない人物であることが多い。
売れないイラストレーター、浪人生、出世とは無縁の平社員、などだ。
私が読んだ短編集の表題作は、例外的に大企業の社長という、社会的に成功した人物だが、彼も今の生活に満足しているわけではなく、どこか物足りなさを感じている(最終的に、彼は売れない小説家としての人生を歩むことになる)。
次に、SF的超常現象の発生だ。
まあ「SF短編」というぐらいなので、わざわざ説明しなくてもタイムスリップやパラレルワールドなどの要素が含まれていることは、納得してもらえるだろう。
最後に「日常への回帰」だが、これが藤子・F・不二雄独特というか、他のSF作品にはあまり見られない要素である。
これが最もよく表れているのが、『旅人還る』という作品だ。
光速度の宇宙船に乗り、コールドスリープを繰り返し、人間が通常たどり着くことのできない宇宙の果てを目指すというプロジェクトに、主人公は応募する。
このプロジェクトは遠くに行くことが目的なので、地球へ帰還することはできない。
しかし、「日常から果てしない宇宙への旅に向かう」というロマンに憧れた主人公は、愛する恋人に別れを告げ、プロジェクトへの参加を志願する。
そうして、数十億年にも及ぶ長い旅が始まるのだ。
長くなるので詳細は割愛するが、なんだかんだあって、主人公は膨張を続けていた宇宙が収縮し、再び同じ歴史を繰り返しているという事実を発見する。
それだけでなく、なんと再生された地球を発見し、帰り着くことができたのだ(厳密には、彼がいた地球ではないが)。
そこではちょうど、同じく再生された主人公が宇宙へと飛び立つ瞬間だった。
永遠の別れに悲しむ恋人に出会った(もちろん彼女も再生された存在だ)主人公は、これまでのいきさつを話し、恋人との再会を確認したところで物語は終わる。
この物語は、物足りなさを感じていた主人公が、片道の宇宙旅行というSF的ロマンを経験し、日常に帰ってくるという、藤子・F・不二雄作品の法則にピタリと当てはまっている。
「ちゅらさん」を支配する価値観
さて、話はガラリと変わってしまうが、ここで現在再放送されている2001年の朝ドラ、「ちゅらさん」の話をさせてほしい。
この作品は、藤子・F・不二雄の短編とは違って、たまにチラッと見るぐらいしかしていないので、詳細なストーリーを話すことはできない。
そのため、調べた情報を元に話すことを許してほしい。
「ちゅらさん」は、主人公の絵里が、看護師になるため、沖縄から東京へ上京するという物語だ。
ただ、正直言うとこうしたストーリーはあまり重要ではない。大事なのは、物語全体に流れている価値観である。
一部しか見ていない私でも分かるほど、この物語は「仕事での成功+結婚=幸せ」という、昭和的な考え方が根底に流れている。
絵里の結婚相手は、同じ病院で働く若い医師だ。
上京先での職場結婚かつ、相手が憧れの職業の代表例である医者というのも、コテコテのサクセスストーリーである。
作中では会話シーンがよく見られるのだが、そこで話されているのは仕事や結婚、家庭のことばかり。
正直、仕事とは関係のない趣味の1つでも持った方がいいんじゃないか、と思ってしまうほどであった。
”日常”という視点で2作品を捉えなおす
なぜ藤子・F・不二雄のSF短編のあとに、こんな話をしたのか。
それは、「日常」という視点で捉えなおしてみると、この2作品の対比が興味深い形で浮かび上がってくることに気づいたからだ。
SF短編は、先に述べたように「日常への回帰」で終わる。
これを、「何気ない日常こそが大事なんだ」というメッセージとして捉えると、両作品は一見して同じことを言っているかのように見える。
ただ、細かく見ていくとそこにはいくつかの違いがある。
私の勝手なイメージだが、藤子・F・不二雄の作品は、外国に旅行したあと「やっぱり住み慣れた家が一番落ち着くな」、と思う感覚に似ている。
日常を捨て、SF的な超常現象に身を任せたことで、結果的に失った日常の重さを理解することができるのだ。
ただ、これは決して「ありふれた日常が一番大事なんだ」という意味ではない。
むしろ、超常現象をもってしても克服しきれない日常の引力に気づかされるというほうが表現としては正しいだろう。
果てしない宇宙への旅に出たとしても、結局は恋人のもとに帰ってきてしまう。
どこまでいっても、私たちは日常から自分を切り離すことはできない、ということを彼の作品は伝えている。
対して、「ちゅらさん」は日常こそが大事であるという価値観を、かなり明確な形で押し付けている。
というか、あの世界ではそれ以外の幸せが存在していないかのようにさえ感じてしまう。
このように書くと批判的に見えるが、こうしたストーリーは、この作品が朝ドラであることを考えるとむしろ妥当である。
なぜなら、朝に放送するからには、ターゲット層は必然的に会社員や老人になるからだ。
彼らは、真面目に仕事をし(もしくは過去にしていた)、人によっては家庭も持っている。
そんな彼らに、「仕事もせずフラフラしていた主人公が、一発当てて大金持ちになる」、なんて話を見せるわけにはいかない。
もしそんな話を放送したら、「ドラマの影響で夫が仕事辞めたんですけど!どうしてくれるんですか!」というクレームが間違いなく来るだろう。
そのため、「働けば幸せになれます!真面目に頑張って家庭を築いていきましょう!」という、彼らの生活を肯定する話にした方が、視聴率という点でも最適な戦略だ。
だが、そうした事情を無視して作品単体で見ると、やはり「日常」という言葉の重さに大きな違いが出てくることは否めない。
どんな超常現象が起こっても、日常からは逃れられないことを示した藤子・F・不二雄、日常の中で夢をかなえて幸せになれるという幻想を見せる「ちゅらさん」、前者の方が厳しいながらも、より正確に現実を見据えている気がするのは私だけだろうか。
大きな物語が崩壊した世界で
※ここからは、さらに私の偏見が強くなるので、共感できない人は読み飛ばしてください。※
ポストモダンを代表する思想家のリオタールは、「現代は大きな物語が終焉し、小さな物語の時代になる」と主張した。
石毛弓『リオタールの大きな物語と小さな物語 概念の定義とその発展の可能性について』(https://opac.ryukoku.ac.jp/iwjs0005opc/bdyview.do?bodyid=BD00003265&elmid=Body&fname=KJ00004859480.pdf&loginflg=on&once=true) (2024年10月18日閲覧)
「大きな物語」というのは、人類の発展や科学の進歩など、普遍的に共有されている価値観のことを指す。
「小さな物語」は、もっと個別的というか、大きな物語のように包括的に語ることのできないものだ(参考にした論文では、日本の神話である『古事記』が例として挙げられている)。
私は、この「小さな物語」は「中ぐらいの物語」と「小さな物語」の2つに分けることができるのではないかと考えている。
「中ぐらいの物語」というのは、民間宗教や、その土地だけで共有されている価値観など、人類全体より狭い範囲の価値観を指す(この定義だと「小さな物語」は、ほとんど家族や個人などのレベルになるだろう)。
そして、この「中ぐらいの物語」には、「真面目に働いて、家庭を持てば幸せになれる」という価値観も含まれる。
なぜなら、これは日本という国である程度普遍的に共有されているものだからだ。
話を戻して、リオタールは「大きな物語」が崩壊していると主張する。
これは、宗教を信じる人が少なくなったり、投票に行く若者が減ったりしていることを考えれば、なんとなく納得できるだろう。
人類全体が普遍的に信じられるようなものは、現代ではどんどん終焉を迎えているのだ。
それに加えて私は、「中ぐらいの物語」も崩壊していると考えている。
分かりやすい例だと、景気の悪化や年金問題、地球温暖化などだろう。必ずしも、真面目に働いた先にある幸せが、保証されなくなっている。
最近では、やたらとSDGsや持続可能な社会といった話を聞くことがあるが、これは裏を返せばこうした問題が、今すぐ対処する必要があるほど緊急性を帯びてきたのだと解釈できる。
何もしなくても今の生活が続くなら、世の政治家は環境問題に取り組んだりなどしないだろう。そんなことをしても、投票につながらないからだ。
放送当時であれば、ある程度の現実味があった「ちゅらさん」の価値観も、この時代では説得力を失っていると言わざるを得ない。
本当に露悪的に見るなら「ちゅらさん」の再放送は、現実からの逃避、美しかった過去への執着であるとも捉えられる。
不確定な未来を生きる
では、そんな「大きな物語」や「中ぐらいの物語」が崩壊した世の中でどう生きていけばいいのか。
最後に、今回読んだ短編集には載っていないが、個人的に好きな藤子・F・不二雄の作品を紹介しよう。
タイトルは『定年退食』。
物語の舞台は、人口が増えて食糧難に陥った未来の社会。
主人公は74歳の老人で、もうすぐ「二次定年」を迎えようとしている。
「二次定年」というのは、この世界独自の制度で、この二次定年を超えると一切の社会保障が受けられなくなるというものだ。
半年後に訪れる二次定年に備えて、主人公は食料を保存するなど準備をしているのだが、政府の突然の発表により二次定年の年齢が引き下げられ、主人公は唐突に人権を失ってしまう。
最後のシーンで、主人公は同じ境遇にあった友人と公園のベンチに座っているのだが、そこにカップルがやってきて、席を譲ってほしいと言われる。
「老人に席を譲れだと!?」と憤慨する友人に対し、主人公は彼らに席を譲ることを了承する。
そして、「わしらの席は、もうどこにもないのさ」と言い、当てもなく歩き始めたところで物語は終わる。
いくら備えたところで、不確定な未来に対し確実な安心を得ることはできない。
では、全てを捨ててクスリや酒に溺れるのかというと、それも違う。
あくまでも普通に、等身大の人生を送り、ありもしない幻想に惑わされず、自分なりに現実と向き合っていくことが大事なのではないだろうか。
「自分なりの向き合い方」というのは、「小さな物語」の最たるものだが、様々な物語が崩壊していることを考えると、特定の幻想に執着しないこうした生き方は、ある意味で最善策なのかもしれない。