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【映画レビュー】「PERFECT DAYS」ではなく「CLOSED DAYS」なのではないか
最近Amazonプライム・ビデオに追加された「PERFECT DAYS」。
何となくどんな内容かというのは知っていたのだが、知人におすすめされたので見ることに。
結論から言うと、いい映画だった!
基本的にはトイレの清掃員である主人公の日常が描かれるのだが、明確なストーリーや感動の押し付けもなく、見る人の解釈に任せます、っていう感じの内容。
要は、考える余地が多い作品だということだ。
私のような考察厨、作品を見てあれこれ考えるのが好きな人間には、たまらない映画だった。
映画の内容
一応見てない人のために、ストーリーを簡単に解説すると、中年で独身、トイレの清掃員をしており、裕福とは言えない暮らしを送っている主人公。
ただ、行きつけの飲み屋やバー、本屋などがあり、精神的には豊かな生活を送っている。さらに、写真屋で現像するタイプの古いカメラを持っており、公園の写真を撮る、それに加えて家の中で園芸までやっている。
基本的には変わり映えのない日常なのだが、同僚の若者の恋愛事情に巻き込まれたり、家出した姪が突然自宅にやって来るなど、変わらない主人公と変化する周囲の対比によって物語は進む。
諭し・現状肯定説 vs. 理想の人生説
さて、退屈な説明はここまでにして、ここからは映画のテーマについて考察していく。
いったい、この映画は鑑賞者に何を伝えたかったのか。
素直に考えると、トイレの清掃員というVTuberに差別されるような職業でも、幸せな生活が送れるということになるだろう。
一見貧しく見える生活を、あえてPERFECT DAYSと表現し、豊かさの度合いにかかわらず幸せになれる、ということを伝えたかったわけだ。
ここからもう一段深く考えると、
「いやいや、どこ行ってもチェーン店ばかりで、暇さえあればスマホを見る人ばかりの現代、こうした素朴な幸せに包まれた暮らしをしている人は稀だろう。これは現代人の理想という意味でのPerfect Daysなのではないか。」
という感じになる。
確かに、見渡せばチェーン店ばかりで、写真や読書を始めとしたほとんどのことをスマホで済ましてしまう多くの人にとって、それらを一切使わない主人公はまるで山に住む仙人のようにも見える。
ビジネスの競争にも加わらず、低い給料で同じことを続けるトイレ清掃員を続けていることも、托鉢や供え物だけで生活をしていたかつての僧侶に近いものを感じる。
1つ目の考えに名前をつけるなら、「自分の近くにある幸せに気づきなさい」という「諭し・現状肯定説」
2つ目の考えは、「主人公のような、足るを知る立派な人間になりなさい」という「理想の人生説」
になるだろうか。
第三の選択肢 CLOSED DAYS説
ただ、私はこのどちらでもない3つ目の解釈が正しいのではないかと考えている。
それが、「CLOSED DAYS説」だ。
ただ、これもすでに誰かがすでに言ってそうなので、簡潔に説明する。
要は、Perfectの意味を「完璧」ではなく「完成された」と解釈するという説である。
映画内では、ことさらに主人公が同じ行動を繰り返していることが描かれている。
出勤前には必ず自販機でコーヒーを買い、手持ちのいくつかのテープから車内で聴く音楽を選ぶ。行きつけの飲み屋では、顔を見ただけで店主が酒と料理を真っ先に運んできてくれる。
他にも、写真を撮る場所がいつも同じだったり、写真屋でも無言でお金と現像された写真を交換するなど、挙げればキリがない。
ある意味では、強迫性の症状に近いところがあるとも言える。
割と序盤の方で、真面目にトイレ掃除をする主人公に対し、スマホを見ながら適当に仕事をやっていた新人の若者が、「何でそんなに真面目に掃除するんですか?」と聞く場面がある。無口な主人公はその質問に答えない。
この段階では、一種の職人めいた感じというか、彼の仕事に対するプライドから来る真面目さのように感じる。
ただ、今言ったようなルーティン化された日常を見ていくと、むしろ不真面目にやって今の生活を壊したくない(上司からの叱責やクビなど)、より本質に近い表現をすれば「真面目に仕事をこなすことによって、仕事も完成された生活のルーティンに取り込むため」だと解釈できる。
新人の若者は、お金がいるため仕方なくこの仕事をしている。だから、真面目には働かないし、実際に生活の変化によって仕事を辞めてしまう。
しかし、主人公はこの仕事に生涯就くことを決めている。そうなれば、中途半端にサボるより、きっちり終わらせて仕事の「隙」を無くした方がいい。隙があればルーティン化できないからだ。
このことをより示すのが、さっき言った新人が急に仕事を辞めてしまった場面だ。彼は急に辞めてしまったので、次の人のシフトが空いたままになってしまっていた。
そこで、会社は主人公に今日だけは2人分やってくれないかと頼むのだが、ここで主人公は初めて感情的になり、「今回は仕方ないが、このままじゃ仕事を続けられないから、早急に何とかしてくれ」と強めに言う。
この言い方と表情からは、仕事に対する熱意というよりも、今の生活を崩されたくないという意思を強く感じた。
そして、主人公の願いが叶い、次のシフトからは新しい人が入ってきた。
ただ、彼女は前の若者と比べ、無愛想で冷たい感じの人だった。それでも、主人公はきっちり仕事をこなしてくれそうな彼女を見て、安堵の笑顔を浮かべる。
本当は冷酷だった?意外な主人公の一面
話は前後してしまうが、主人公と不真面目な若者が一緒に仕事をしていたとき、彼の幼なじみで、少し知的障害を持った人物が出てくる。その幼なじみは、彼の耳を触るのが好きだった。
しかし、彼は唐突に仕事を辞めてしまったので、1人になった主人公が掃除をしているところに、その幼なじみが現れ、もう彼がいないことを告げると、不貞腐れて悲しそうに帰っていった。
ここは、そこそこショッキングなシーンなのだが、主人公は特に悲しそうな様子も見せず、辞めた若者に電話をかけることもしない。この行動は、彼をいわゆる「主人公気質の誠実な人間」として考えた場合には少し違和感がある。
そう、無口だけど真面目で優しそうに見えた主人公は、悪い言い方をするなら無感情で自己中心的な人物だったのだ。
確かに、(明らかに返ってこないことがわかりつつ)若者にお金を貸したり、家出してきた姪のわがままに付き合うなど、優しさを見せる場面もある。
ただ、それはあくまでも大人として最低限というか、常識の範囲内に留まっている。悲しんでいる幼なじみの姿を見ても、辞めた若者に文句は言わないし、帰りたくないと言った姪に対しても、「いつでも来ていいから」というお決まりの文句だけでそのまま帰してしまう。
唯一最後のシーンで、行きつけの料理屋のママの元夫という、あまり好ましくない人物と出会ってしまったとき、優しい言葉で励ます主人公が見られるのだが、私の目からは傷ついた自分への誤魔化しというか、感情的にならないために、あえてことさら明るく振る舞ったように見えてしまった。
やはり、主人公は本当に心の優しい人物ではなく、自分の生活を守るために優しい人間として振る舞っている(岡田斗司夫が言うところのいい人戦略)と解釈するのが正しいだろう。
まとめ:非常に凡庸だが、人生に正解なんてない
というわけで、以上が私なりの考察である。
トイレ清掃の仕事を真面目にこなし、貧しくも文化的な生活を送っている主人公は、普遍的な幸せを持った人物でも、憧れるべき対象でもない。
あくまで、彼は自分なりに幸せと感じる生活を送っているに過ぎないのである。
この映画に何かしら教訓があるとすれば、人の幸せはお金や地位といった表面的な部分で推し量ることはできない、ということぐらいである。
むしろ、社会で立派とされる人間の対極に近い主人公の生活を見ることで、そこに共感したり時には反発したりし、鑑賞者に自分の人生を見つめ直させることが、この映画の目的ではないだろうか。
だからこの映画を見て、主人公のような生活を送ろう、と決めてしまうのは間違いだ。
そうではなく、自分にとっての幸せとは何かを考えることが、この映画を見た人がとるべき行動である(と私は思う)。