戦争のことは本当にわからない......
今日大学の帰りに、駅前でチラシが配られていたので受け取ってみると、「星野文昭・暁子 絵と詩展」と書かれていました。
配っていたのは年配の方で、僕は目が悪いのでよく見えませんでしたが、おそらく戦争反対と書かれた紙を持っていました。どうやら近くでこの「星野文昭・暁子 絵と詩展」が開催されるらしく、主催は「大阪北摂・星野文昭さんをとり戻す会」で、入場は無料とのことです。
この星野文昭さんという方、チラシに書かれていた内容によると、1971年に起きた沖縄返還協定批准阻止闘争を決起したそうです。その後、実行犯にでっち上げられて逮捕され、無期懲役の判決が下されました。
星野さんは、獄中で何度も無実を訴えましたが認めてもらえず、2019年の5月30日に、73歳でガンにより亡くなられました。ガンの手術は行われたそうですが、その際の医師の対応が杜撰であったとチラシには書かれていました。ガンの事実が隠蔽されていたという話もあるそうです。
これらの行為を権力犯罪であるとし、この展示会を主催している「大阪北摂・星野文昭さんをとり戻す会」をはじめとした、多くのデモ活動が現在も行われています。
最後にロシアのウクライナ侵攻にも触れており、NATOがロシアを追い詰めたせいで戦争に発展したとして、その原因はアメリカにあるとしています。そして改憲と核武装を進める岸田政権の姿勢に反発し、沖縄が台湾有事の際に、最前線の基地にされることを防ぐため、戦争反対を訴えています。
全体的に「◯◯を許すな!」「戦争絶対反対!」などの強い言葉が使われており、強いメッセージ性のある文章でした。僕はこのチラシをもらうまで星野文昭さん、ひいては渋谷暴動事件のことを知らなかったので、良い勉強になりました。
僕は彼が無実かどうか判断することはできませんが、もしこのチラシに書かれていることが本当であれば、一刻も早く無罪が認められることを願います。
渋谷暴動事件についてはこれ以上はわからないので、この記事では後半に書いてあった戦争反対という主張に対する、僕の考えを述べたいと思います。
これは僕の偏見かもしれませんが、今の老人世代は戦争反対を訴える人が多いように感じます。少し前に、天王寺の高架で9条改正反対を訴えていた人たちも、今日チラシを配っていた人と同じぐらいの年齢でした。
戦争を体験した親の話を聞いたからなのか、反戦教育を受けたからなのかはわかりませんが、とにかく戦争を悪いものとし、それを徹底的に避けようとする傾向がよく見られます。
僕は最近、矢部宏治さんの書いた「知ってはいけない」という本で、日本の軍事が米軍の統制下に置かれているということを学びました。日本はアメリカの都合で、いつでも戦争に巻き込まれてしまう可能性があり、もしアメリカと中国が戦争になれば、日本はその領土全てがアメリカ軍の基地になってしまう可能性も十分にあると、この本には書いてありました。
そうしたことを踏まえると、たしかに軍備を拡張するのは戦争を招くので良くないという考えもわからなくはないのですが、かと言って一切の戦力を持たないというのは、この情勢において愚策以外の何物でもありません。
なんとなくですが、戦争反対をとなえる人たちは、武力を持つ=戦争で、武力を持たない=平和と考えている節があるように感じます。ですがウクライナ侵攻を見てもわかる通り、武力を持つことだけが戦争を引き起こす理由になるわけではありません。
ウクライナ侵攻は、ロシアの緩衝地帯であるウクライナが、アメリカ陣営であるNATOに入ることを防ぐためにロシアが仕掛けた戦争です。ある意味ではロシアや中国の緩衝地帯と言える日本は、アメリカと日米安全保障条約を結んでいます。こうした状況にある日本で戦争が起こる可能性は、十分に現実味を帯びるレベルになってきているのではないでしょうか。
もし日本がアメリカと手を切り、完全に武力を放棄すれば、たちまちロシアや中国の標的となってしまうでしょう。非武装だから襲わないだろうなんていう考えは、残念ながら国際社会では通用しないのです。ましてやその国が、軍事の重要な拠点となるのであれば尚更です。
核武装についても同じことがいえます。日本がアメリカの核の傘に入ることをやめ、自国でも核保有を行わないのならば、日本に核爆弾が落とされた時、何も対抗することができません。そうすれば非常時のカードとして、日本に核を飛ばすという選択がとられることもあり得るでしょう。核兵器を持っていないからといって、その脅威から逃れることができるわけではないのです。
「日本は唯一の被爆国として、核兵器の保有はしない!」という考えは美しいものに見えますが、それで我が身を滅ぼしてしまっては何にもなりません。このあたりは冷静になって、国の安全にとって最も良い戦略は何かということを、感情抜きで考えていく必要があると思います。
戦争というのは恐ろしいものです。何千、何万という人が亡くなりますし、建物や街も容赦なく破壊されます。そうした戦争を何がなんでも避けたいがために、戦争反対、武力放棄を掲げるという気持ちはよくわかります。しかしどこかの国から侵略されそうになったのならば、僕たちは武器をとって戦わなければなりません。
愛国心やナショナリズムによってだけでなく、僕たちの暮らしや日常を守るために、立ち向かっていく必要があるのです。自分の住んでいる町が破壊され、家族や友達が奴隷のように扱われるのを、黙ってみていることができるでしょうか。僕はできません。
僕はそうした惨劇を防ぐための方法があるのなら、できる限り行っていくべきであると思います。それがたとえ武力を持つことであっても、です。話し合いでなんとかなるならそれに越したことはないでしょう。ですがウクライナ侵攻でもあったように、どうしても譲れないことに関しては、いくら話し合っても決着がつきません。やはり最終的には、武力衝突へと発展してしまうのです。
戦争に行けば、体の一部を失ったり、最悪の場合は命を落としてしまう危険があります。しかし命より守るべきものがあるからこそ、命を賭けて戦地へと赴くのです。生きててなんぼ、と言いますが、それは全てを失ってでも生きるべきだというのではありません。逃げてばかりではなく、ときには戦う必要だってあります。そしてそのための準備は、常日頃から行っておかなければならないのです。
最後は僕の持論を語ってしまいましたが、どうも最近の世の中を見ると、戦争に対する意識や危機感が少ないように感じます。まるで心のどこかで戦争なんか起こるはずがない、とでも思っているかのようです。平和でけっこう、といった感じですが、あまりに関心が薄いのは、それはそれで問題があるような気がします。