「ほどける」
1
困った。涙が止まらない。
昼休み、いつものように仲のいい友人たちと机を寄せてお弁当を食べていたら、一人が突然言った。
「泣きレースしない?誰が一番早く泣けるか競争するの。昨日テレビでやっててさ」
面白そうだとみんな乗り気になり、やってみることになった。
「よーい、どん」
やってみると、思いの外、みんな泣けるものだった。「ドラマの最終回思い出してみた」「聞くと必ず泣いちゃう曲を脳内再生した」など、それぞれ涙のトリガーを報告し合っていたが、わたしだけ、最後まで泣けなかった。
その時は特に気に留めることはなかったけれど、帰り道一人になると、急に思いが巡り始めた。そういえば、最後に泣いたのはいつだろう。「ドライな人だ」とよく言われるが、確かに感情を表に出すタイプではない。中学の卒業式でも、みんな泣いていたけれど、わたしはそんな友人たちの肩を笑いながらさすっていた。
もしかしたら、わたしには心がないんじゃないだろうか。
そう思ったら、なんとしてでも今、涙を流しておきたい気持ちに駆られた。わたしにだって涙を流す機能が備わっているということを確かめたかった。だから、一人で「泣きレース」の続きを始めた。
いろんな悲しい出来事を想像してみた。家族がいなくなってしまうこと。自分が余命宣告されてしまうこと。彼氏に別れを切り出されること。大学受験に失敗すること・・・。泣きたい気持ちにはなったけれど、涙は出てこなかった。
やけになって、目を乾燥させる作戦に打って出た。なんでもいいから涙を流したかった。目を見開いたまま歩く。眼球に風が当たり、涙が溜まってきた。今だ!固く目を瞑ると、ついに待ちわびた一粒が右目から頬を伝った。やった、泣けた。
しかし、そこからが問題だった。涙が、止まらなくなってしまった。
なぜか右目だけから止めどなく流れてくる。数秒間目を瞑ってみても止まらない。悲しくないのに、泣きたくないのに、まるで機械のように溢れてくるこの液体は、もはや涙ではなくただの水だ。帰路を急ぐ。おかしい、こんなつもりじゃなかったのに。
家に着いた。洗面所で鏡を見るとまだ涙が、いや水が流れている。電気もつけず、暗い家の中をひとり右往左往する。蒸しタオルで温めたり、逆に保冷剤で冷やしたり、目薬をさしたりしてみたけど効かなかった。冷蔵庫に「水のトラブル」のマグネットが貼ってある。いっそ電話してしまいたい。
テレビ台の下に並ぶ、父が好きなサンドウィッチマンのライブDVDに目が留まった。これだ。思い切り楽しいものを観たら涙が止まるかもしれない。
制服も脱がず再生を始める。伊達さんでも富澤さんでもどちらでもいいので、わたしの涙を止めてほしい。
初めてちゃんと観たネタはとても面白くて、こんな状況なのに思わず声を出して笑った。でも、あいからわず涙は止まらない。だんだん笑えなくなってきた。これから一生止まらなかったらどうしよう。右目から水を流し続ける人生になってしまったらどうしよう。画面の中では二人の息の合った漫才に観客が大笑いしている。その前でわたしは膝を抱え、わけもなく涙を流して途方に暮れている。そこへ玄関で鍵が差し込まれる音がして、
「ただいま」
母が帰ってきた。
2
困った。口角が下がらない。
昼休み、いつものように同僚たちとごはんを食べていた。会社は今、繁忙期。みんな口々に不満を漏らしている。会社の制度や夫婦関係などについて、ひたすら嘆いている。
わたしはそれを聞き流しながら、黙々と箸を進めていた。時折頷き、口の端に笑みを浮かべて、肯定も否定もしないようにしながら。「休憩中くらい仕事を忘れて明るい話題で楽しみたい」というのが本心だったが、この疲弊した空気の中、そんなことは言い出せなかった。
普段厳格で物静かな課長が、新人社員のミスに慌てふためいていたという話題に移った。一人がその時の様子を面白おかしく再現して、どっと笑いが起きる。んー、正直ちっとも面白くない。人の必死な姿を笑うというのは、いくらストレスがたまっているとはいえ、さすがに品がないのではないか。そう思いつつもわたしは空気を読んで無理やり口角を上げてしまう。一言物申す勇気がない自分を、嫌だ嫌だと思いながら。
食事を終えて解散し、歯を磨きにお手洗いに向かった。そこで鏡の中の自分を見てギョッとした。左の口角だけが不自然に釣り上がっている。自分の顔が、悪事を企む悪戯っ子のような、歪んだ表情をしている。必死に真顔に戻ろうとしても、言うことを聞いてくれない。午後の業務がまだ残っているのにどうしよう。慌てて鞄の中からマスクを取り出してつけた。結局その日は、パソコンに向かっている間も、上司からの指摘に頭を下げている間も、マスクの中は半笑いのままだった。
帰りの電車に揺られながら思いが巡る。昔から愛想がいいとよく褒められた。「いつもニコニコしていて偉いわね」と。やがて大人になるにつれて愛想笑いを覚えた。嫌なことがあっても、なるべく笑顔を絶やさないようにしてきた。「主任って怒ることとかあるんですか。いつも笑ってるイメージだから、負の感情とかなさそう」と言われたこともある。「あるよ。負の感情、あるある」と返すわたしは、やはり笑っていたのだった。
マスクの上から左の口角に触れる。ずっとこのままだったら、意に反して左半分だけ笑い続ける人生になってしまったらどうしよう。一体どうすればいいのだろう。
一晩寝たら治るだろうか。温めたり冷やしたりしてもダメだったら、明日有休を取って病院に行こうか。でもどこを受診すればいいのだろう。外科? 心療内科? そんなことを考えているうちに自宅の玄関に辿り着く。
一旦呼吸を整えて、鍵を回して声をかけると、「おかえり」娘の声がした。
3
「あら、帰ってたの」
マスクを外しながら母がリビングに入ってきた。
「うん、帰ってた」
わたしは薄暗い部屋で膝を抱えたまま答える。
「何、DVD観てるの? 電気もつけずに」
そう言ってわたしの目を覗き込んだ母が驚く。その口元を見たわたしは眉をひそめる。そして二人同時に声を上げた。
「どうしたの」
沈黙が流れた。半分泣いている人と、半分笑っている人。おかしな二人は呆気にとられて見つめ合った。そうしていると不思議なことに、お互いの身に起きていることがなんとなくわかってくるような感じがした。何も言わなくても、何も聞かなくても。
母の手がゆっくりとわたしの右頬に伸びてきて、そっとしずくを拭った。久しぶりに感じた、母の手の温もりだった。
すると右目から溢れ続けていた液体はピタリと止まり、代わりに左目から涙が一筋、ほろッと流れ落ちた。それを見た母は一瞬ハッとしたあと、両の口角を上げて安心したように笑った。
「あっ」と二人同時に呟いた。嘘偽りのない、自分の本当の感情を見つけた。そして言葉のいらない母娘の繋がりが、わたしはなんだか嬉しく、少しくすぐったく思えた。
その時、玄関のドアが勢いよく開いた。慌ただしく走り込んできた兄が、「ただいま」も言わずに捲し立てた。
「困ったよ。昼休み友だちと酔っ払いのモノマネ選手権をしてたんだけどさ、それ以降しゃっくりが止まらないんだ」
不意に、つけっぱなしにしていたテレビ画面から富澤さんの太い声が響いた。
「ちょっと何言っているかわからないです」
「わっなんだびっくりした! あっあれ。止まった。よかった」と兄。そこへすかさず「なんだよいい加減にしろよ!」と伊達さんが叫ぶ。観客が手を叩いて盛り上がる。
一連の奇跡を目の当たりにしたわたしと母は顔を見合わせ、同時に噴き出した。わたしたちはそのあとしばらく、まるで何かから解放されたかのように、涙を流して笑い続けた。
(了)