
ヘミングウェイの旅行鞄
二十世紀を代表するアメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイは、無名だった二十代はじめからほぼ終わりまでを、パリで過ごした。最初は記者としてパリに渡り、雑誌の編集の仕事などもしながら、専業作家としてのキャリアを目指してせっせと執筆した。それが結実し、最初の著作「われらの時代」「日はまた昇る」が発表される。いってみれば、作家ヘミングウェイはパリで誕生したのだ。パリ時代には、最初の妻ハドリーとの間に最初の子どもが生まれ、ヘミングウェイは父親にもなった。
まだ何者でもなかった若きヘミングウェイの、パリでの生活を経済的に支えていたのは、妻ハドリーが得た遺産だった。当時の作家の必需品であったタイプライターも、ハドリーからの贈りものだった。この八歳年上の妻ハドリーの物心両面からの支えがなかったら、のちのノーベル賞作家は誕生しなかったかもしれない。しかしながら、二人の結婚生活はもうひとりの女性の登場により破綻してしまう。同時にヘミングウェイもパリを去り、アメリカに戻る。
晩年のヘミングウェイはこのパリ時代を振り返って、回想録『移動祝祭日』を執筆。発表に向けて原稿を入れている最中、一九六一年に自らを銃で撃ってこの世を去ってしまった。『移動祝祭日』は、最後の妻メアリーの手によって一九六四年に出版された。
個人的には、正直ヘミングウェイにはあまり興味が持てなかった。釣り、狩り、ボクシング、闘牛、戦争…とマッチョなテーマばかりを扱ってきた作家という印象で、偏見もあってほとんど読んだことがない。しかし、『移動祝祭日』が新潮文庫から出てから、書店で平積みになっているのを手に取り、気になって買って帰って、夢中になって読んだ。
地に足のついた、生活者としてのヘミングウェイがここにいた!アパートの場所、通っていたカフェの名前。そこでノートを広げて鉛筆を手に取り、コーヒーを頼んで字を書き始める様子。ちょっと贅沢して競馬に行こうと妻を誘ったり、猫にベビーシッターを任せて、妻と散歩に出たり…キラキラした思い出が綴られている。
当時パリにいたアメリカ人仲間、フィッツジェラルドやガートルード・スタイン、シルヴィア・ビーチらとの交友の様子も詳細に綴られているのも興味深い。おもしろいエピソードも満載だ。
その後、ポーラ・マクレイン著『ヘミングウェイの妻』という本が出た。ハドリーの遺した肉声テープや書簡などの資料を丁寧に調査し、できるだけ事実に忠実に、パリでの結婚生活をハドリーの視点から再構成した物語である。
『移動祝祭日』でも、『ヘミングウェイの妻』でも、大事件として描かれているのが原稿紛失事件だ。
一九二二年十二月、ふたりがパリで暮らし始めてちょうど一年くらい経ったころ、ヘミングウェイはスイス・ローザンヌでの取材のために単身パリを発つ。その後、寂しくなったヘミングウェイはハドリーを呼び寄せる。ハドリーは、きっとヘミングウェイは休暇中に自分の原稿に手を入れたいだろうから…と気を利かせ、それまでに彼が書いた詩や短編のすべて、そのカーボンコピー、初めての長編の第一稿、創作メモなどの一切合切を、自分の旅支度とは別に小型のスーツケースに詰めて持って行くことにした。パリのリヨン駅でローザンヌ行きの列車に荷物を積み込み、ちょっと水を買いに行ったか何かで目を離したわずかな隙に、座席に置いてあったその小型のスーツケースが忽然と消えてしまった。網棚に載せてあった、着替えなどを入れた大きい鞄は無事だったのに。半狂乱になってスーツケースを探すも、見つからないまま列車は発車してしまう。
ローザンヌに到着したハドリーは、ヘミングウェイに会ってそのことを伝える。ヘミングウェイは、それまでの創作の成果のすべてが失われたとはにわかに信じられず、単身パリに戻ってアパートを確認するが、本当に、すべてがなくなっていた。出版社に送った一篇と、ガートルード・スタインに見てもらった結果「発表はできない」と言われた一篇を除いてすべて。
このことはヘミングウェイにとってかなりの精神的打撃で、再び書くことができるようになるまで、時間がかかったようだ。そのことも『移動祝祭日』に書かれている。今となっては、この出来事がヘミングウェイの無駄を省いたミニマルな文体の確立にいい効果をもたらしたのかもしれないとも言われてはいるが。
こうして、ヘミングウェイの初期の作品は大部分が失われたまま、今に至るまでどこからも出てきてはいない。当時のヘミングウェイは無名だったので、ヘミングウェイ以外の人間にとっては何の価値もない紙きれだ。リヨン駅の泥棒はおそらく金目のものが入っていると見込んでスーツケースを持ち去ったのだろうが、中には紙しかないってなかったのでがっかりしたのではなかろうか。
個人的には、無くなったスーツケースの中身はもちろんだが、スーツケースそのものがどんなものだったのかも非常に気になる。
そして、本が好きな人はたいがい、こういう「失われた原稿」とか「失われた本」などのミステリが大好きである。ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」、ジョン・ダニング「死の蔵書」、ジョン・グリシャム「「グレート・ギャツビー」を追え」などなど、実際には存在したらしいが現在は確認できない書物や原稿をめぐる小説は少なくない。ヘミングウェイの失われた初期原稿も、多くの作家にインスピレーションを与えてきた。ちょっとネットで調べると、「ヘミングウェイ泥棒」とか「ヘミングウェイのカバン」とか、似たようなタイトルの本が英語でどっさり出てくる出てくる…
自分もこの手の話は大好物なので、いま日本語で読めるヴィンセント・コスグローブ『ヘミングウェイ・ペーパー』、マクドナルド・ハリス『ヘミングウェイのスーツケース』、ジョー・ホールドマン『ヘミングウェイごっこ』は、どれももちろん愉しく読んだ。このたび改めて、スーツケースについてどんなふうに描かれているかを見直してみた。
『ヘミングウェイ・ペーパー』は、スーツケースが無くなったとハドリーから聞いたヘミングウェイが、ローザンヌからパリに戻ってアパートにカーボンコピーすらも残っていなことを確認した後、スーツケースを捜して繰り広げる大活劇を描いた完全なフィクション。原稿入りのスーツケースは、他の重要証拠が入ったスーツケースと勘違いされて持って行かれてしまうのだが、そこでヘミングウェイが巻き込まれる出来事のスケールが大変大きく、この時代のヨーロッパの状況を反映していておもしろい。この中では、件のスーツケースは「ブラウンのキャンバス製で、ヘミングウェイのイニシャルEMHが入っている」とのこと。金属部分はやや変色した、くたびれたスーツケースということになっている。
『ヘミングウェイのスーツケース』と『ヘミングウェイごっこ』はどちらも、失われた原稿の捏造を企む人たちの話で、どちらにも、若いときのヘミングウェイが書いたらしい原稿が出てくる。いずれの作者もヘミングウェイ研究家らしく、失われた原稿はおそらくこんな内容だったのでは?というパスティーシュがおもしろいのだが、それをめぐる物語はそれぞれにまったく違っている。
登場人物が調査に訪れるワシントンにあるジョン・F・ケネディ図書館&博物館のヘミングウェイ・コレクションの様子とか、ヘミングウェイがパリ時代にどんなタイプライターを使っていたかとかの情報もあり、本筋以外の部分もかなり興味深い。
『ヘミングウェイごっこ』では、タイプライターについてはかなり詳しく言及されているが、スーツケースには登場人物の誰も関心がないようで話題にも上らない。『ヘミングウェイのスーツケース』には、一か所だけ、わりと詳しいスーツケースの描写がある。
しゃれた小さな旅行鞄で、新品同様だった。ハドリーはそれをヘミングウェイと結婚すると悟ったとき、セントルイスで買った。角のところに補強のための金具が打ってある緑色の革製で、把手も緑の革でできている。上の部分に真鍮のラッチが二つついていて、鍵がかかるようになっていた。
もちろんこの情報は、『ヘミングウェイ・ペーパー』での描写と同様に、フィクションと思われ、信憑性はまったくない。
とはいえ、こちらはそもそもハドリーのスーツケースだったとしているのが好感が持てる。荷造りしたのはハドリーなのだから、彼女の鞄だったということももちろんありうるし、「しゃれた小さな旅行鞄」であったというのはとても確からしい気がする。いかにも貴重なものが入っていそうな感じ。だからこそ泥棒に狙われたのではないか。
それで思い出すのは、ヒッチコックの映画「裏窓」(一九五四年)でグレース・ケリーが持っていた、マーク・クロス社のスーツケースである。あれはたしかに小型でたっぷり入るけれど、高級感あるエレガントな外観で、ほとんどハンドバッグみたいに見える。モノクロ映画だから色はわからないが、たぶん黒で、ちょっと光沢のある感じ。
マーク・クロス社のウェブサイトで、歴史のページを調べてみたら、この「裏窓」のスーツケースをデザインした、当時の経営者ジェラルド・マーフィーは、妻のサラとともに一九二一年から南仏アンティーブに移住。ボヘミアン的ライフスタイルを謳歌しつつ、ヴィラ・アメリカなるものを開いて、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」の文人や芸術家たちと交流していたとあるではないか!そこにもちろんヘミングウェイの名前もある!
このサイトには、マーフィー夫妻とヘミングウェイが一緒に写っている、一九二〇年代に撮影されたという写真も掲載されている。キャプションには「ジェラルドとサラ・マーフィー、ポーリーン・ファイファー、アーネスト・ヘミングウェイとともに」とある。確かに、ヘミングウェイの隣、写真のほぼ中央に二人目の妻ポーリーンがいる。しかし反対側の隣にもうひとり笑顔の女性が写っていて、これはハドリーのように見えるのだが…たぶん間違いないと思う。
改めて新潮文庫『移動祝祭日』の解説や年表を見返してみると、マーフィー夫妻の名前がこちらにも出てきていた。ハドリーもヘミングウェイも、子連れでアンティーブのマーフィー夫妻を訪ねている。ポーリーンとの不倫が原因でハドリーとの結婚が破綻するかも…とヘミングウェイが告げたのもマーフィー夫妻だったらしい。上記の写真は、まさに、三角関係が泥沼化しようとしていた時期に撮影されたのではないか。
改めて考えてみると、パリでのハドリーとヘミングウェイの生活は華美なものではなかったようなので、高価なマーク・クロス社製のスーツケースはそぐわないという気がしてきた。むしろ『ヘミングウェイ・ぺーパー』の、くたびれたブラウンのキャンバス地のスーツケースのほうが失われたものに近かったのかも。しかし、マーク・クロス社がパリ時代のヘミングウェイと深いつながりがあったことがわかって、ちょっと興奮した。
『移動祝祭日』の最終章には、ヘミングウェイとハドリーとの幸せな関係は「リッチな連中」の侵入によってダメにされたと書かれている。マーフィー夫妻など、まさにこちらの人々の代表格なのではないだろうか。パリに来た当初は清貧の生活のなかでひたすら文学修行に励んでいたが、現地のアメリカ人との交友関係の中で贅沢な暮らしに触れ、ヘミングウェイの中で価値観の変化があり、それこそがハドリーとの破局につながったのかもしれない。
こんなに旅行鞄のことが気になるのは、やはりヘミングウェイが旅と冒険の作家であり、旅行鞄はそれに欠かせない道具だからだろう。それに『移動祝祭日』という傑作が生まれたのも、長い間失われていた鞄が発見されたことがきっかけだったということもある。
ヘミングウェイの伝記作家ホッチナーによると、一九五六年にヘミングウェイと一緒にパリのリッツホテルで食事をしていた時、ホテルの従業員が寄ってきてヘミングウェイに、一九三〇年からヘミングウェイのトランクを地下倉庫に預かっているが、覚えているかと尋ねてきたという。そのあとオフィスにそれを運ばせてみたところ、それは二〇年代にルイ・ヴィトンに特注で作らせたトランクだった。ヘミングウェイはそのトランクのことは覚えていたが、その後どうしたかすっかり忘れていたらしい。その中には衣類だの領収書だのメモだのあらゆるものが詰まっていたが、一番底に、二〇年代のパリでヘミングウェイがカフェでせっせと書いていたノートの束が見つかった。この発見にヘミングウェイはとっても喜んで、『移動祝祭日』を書くきっかけになったという。
ルイ・ヴィトンのヘミングウェイ・スペシャルの画像は、ネットで探すとすぐに見つかる。タイプライターを納める場所、本を詰める場所がしっかりあって、本が動かないようにバンドで固定できる。そのほかに小さい引き出しがいっぱいあって、このトランクを広げれば、ちょっとした書斎になるようなモノだ。とてもいい感じ!本の大きさが全部揃っていればの話だけど。この記事のタイトル写真がそれであるが、タイプライターとか本とかは、オリジナルかどうかわからない。ホッチナーは、トランクが見つかったときに本やタイプライターが入っていたとは書いていない。
このトランクは一九二七年に完成したらしいが、それはちょうどハドリーとの離婚が成立して、ポーリーンとの結婚生活が始まった年だ。その翌年にはパリを去り、アメリカに戻っている。一九三〇年からリッツの倉庫に保管されていたということは、本来の目的では使われることはあまりなかったのではないかな…
なお、見つかったノートはモレスキンではなく、フランスの小学生が使うような、簡素な罫線入りのノートらしい。『移動祝祭日』には、カフェに足を運び、ノートを広げて、鉛筆で創作に励むヘミングウェイの姿が描かれている。晩年のヘミングウェイはいろいろと病気を抱えてかなり辛かったようなので、青春の形ある思い出がこうして手元に帰ってきたことは、大きな喜びであっただろう。
『移動祝祭日』のなかの思い出は、よくいわれるように、実際のところかなり美化されているのだろう。さらに、二番目の妻ポーリーンや、彼女と知り合うきっかけとなった「リッチな連中」についての記述はかなりひどい。心変わりした自分のことを棚に上げ、ハドリーとの別れの責任をすべて彼らに押し付けているようで、フェアではないという印象を受ける。
とはいえ、無名だったヘミングウェイが、パリで作家になるという夢をかなえるべく一生懸命に創作に励み、それをハドリーが健気に支えていたのは間違いない。また、文芸作品としての『移動祝祭日』がすばらしいのは間違いなく、その舞台である一九二〇年代のパリという街の輝きがここに封じ込められていて、本を開けば誰でもいつでもこのパリを体験できるのだ。
この「本の雑貨店」シリーズはこれでついに12本目となりました。6本を超えたあたりで「10本、いや12本(1ダース)溜まったらZINEにしよう」と思いついたものの、ネタは思いついても執筆が追い付かず、なんと5年もかかってしまいました(汗)。
ようやく12本そろったので、紙の本にするために文章をリライトしたり、フォーマットその他を検討したりと、ぼちぼち準備しています。8月の完成を目標にしています!