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俳句本を読んでみた その一
一日一句ずつ作って美麗ダイヤリーに書く…というのを細々と続けている。最初のうちは、夏井いつき先生の提唱する日常の出来事を五・七で描写してあとは五音の季語をつける…という方法でやっていたが、少々限界を感じるようになってきた。
まず、季語への理解がいっこうに深まらないし、語彙もなかなか増えないのでつい同じような季語ばかり使いそうになってしまったり。どっかにすでにありそうな句を作ってしまったり。
どうしても作れなかった日には、季語辞典に出ているその季節にふさわしい句を書き写して覚えようと考えていたが、季語辞典に出ている句があまりピンとこないという問題が浮上。
これはやはり、そもそも鑑賞ができてないということだろう。俳句の名人は鑑賞の名人でもあるのだそうだ。
作句と並行して、ちゃんと土台づくりもしていかないと、いくらのんびりとした趣味としても続かぬ…と思い、世の中にたくさん出ている俳句関連本をいくつか読んでみることにした。
自分の備忘のためにも、一冊ずつ感想などをまとめていきたい。
水原秋櫻子「俳句のつくり方」
この本は、数年前に亡くなった祖父の遺品から出てきたもの。物置のようになっていたマンションの一室の奥の奥の、扉のついた棚に入っていた。昭和30年代刊行の本にも関わらず妙によい状態で、葉書がはさまっていた(祖父の弟から祖父に宛てたもの)。まったく読んだ形跡がないし、祖父が俳句をやってたなんて聞いたこともないので、誰かからもらいでもしてそのまま放置してあったのだろうか。
きれいな本なので捨てるのももったいない、ちょっと読んでみるかと処分せずに持ち帰ったのを、すっかり忘れていた。そのときはまさか自分が俳句はじめるとはあまり思っていなかったのだが。
扉にとてもきれいな和紙が使われている。こんな丁寧な装幀の本は最近とんと見かけない…
もくじを眺めてみると、「修行」とか「心得」とか、ことば遣いに時代が感じられて、なかなか趣きがある。
この写真には第十四章までしか写っていないが、ページをめくると第十五章「飛躍的進歩ということ」「おわりに」と続く。水原秋櫻子という俳人のことは大昔に学校で習った記憶があるが、彼の俳句はひとつも覚えてない。まえがきによると、この本は初心者向けに書いたもので、一応これ一冊読めば俳句が作れるというものを目指したとのこと。ですます調で親しみやすい文体だが、秋櫻子先生の俳号のイメージからはかけ離れた、まったくなよっとしたところのないスパスパした口調が心地よい。何度か再版されたようで、昭和の入門本としては基本的な一冊だったのかもしれない。
しかし、第三章「真の修行の出発」なんてのをみると、生半可な気持ちで始めた人間は尻込みしそうになる。最初の一文をみてみると、
真の修行というものは、何の道でもなまやさしいものではなく、骨身にこたえる苦しさを味わなければならないのですが、俳句でもその通りで、一人前の作者になるまでの苦しさは非常なものですから」
さらに続いて、
「まず出発にあたって、「中途に挫折せず」という固い決心をすることが必要です。」
ヒェ〜!なんでも「気軽に」「誰でも」「すぐできる」ことばかりを喧伝し、敷居を低く低くしようとするキャッチコピーを見慣れた軟弱な現代人には厳しいものがありますね…
嗚呼。何も決心せずに勢いで始めちゃってスミマセンスミマセン。これからちゃんと真面目に勉強します…と思いながら、第四章「季感をおぼえることと歳時記の使い方」へと読み進むと、
「まず第一の修行は、一カ年間の季節の移り変りを叮嚀に観察することです。」
はいはい、おっしゃるとおりでございますと首肯しながら読み進める。
「こういう観察をしながら、一方には、歳時記というものを、もう一度丁寧に読み返すのです。そうすると、人間の生活や風俗というものが、みな自然と深いつながりのあることがわかって、実に楽しい気持ちがおこります。」
ふむふむ。
「ですから、(中略)修行の第一歩を踏み出した時の作者の顔と、一年を経過した時の作者の顔とを比較しますと、明るさにおいて非常なちがいがあります。もし、一年を経過して、作者の顔が明るくなっていなかったら、その人は、一年間季節の推移に対する観察を怠っていたものといえます。」
えええっ!今年の年末、もし自分がいま以上に能天気な明るい様子でなかったら、「コイツはnoteのネタにしてるわりにマジメに俳句やってねぇな」と思ってやってください…orz
気を取り直して先に進む。第六章「佳句観賞」。名句でも秀句でもなく、佳句か。この章では、いくつかの「佳句」を紹介しつつ、秋櫻子先生がその句を解説してくださるのだが、その読みがすごい。俳句のことばに現れていない部分を果てしなく想像力をふくらませて頭の中に描いていて、小説のワンシーンのよう。ここまで読み込み、イメージを広げていくのが俳句鑑賞なのか!あとで他の本で知ったが、水原秋櫻子先生は俳句鑑賞においてもすごい人といわれていたそうである。
長くなってきたのであとは印象に残った点をいくつか。
まず、素人がつい俳句に入れてしまいがちな、陳腐すぎるネタがいくつか挙げられているのがおもしろい。そのうちのひとつが、「写真機には言及しないまま、《撮る》とだけ俳句に書いている作品が異常に多い。つまらん。」というもの。一般人にカメラが普及し始めた時代がなんとなく偲ばれます…
もうひとつは、「車窓がどうしたこうしたという句が多い。つまらん。」というもの。先生は「電車に乗っていてこれはという風景を見つけたら、次の駅で降りてそこまで歩いて行ってちゃんと観察せよ」とおっしゃっる。そうか…ちらりと車窓から見えたくらいで俳句のネタにしようなどというのはおこがましいのか。とはいえ、これまたレジャーとしての旅行が普及し始めた時代が偲ばれて興味深い。
いろんな人の句を添削している項もあり、なるほどこういうところを気をつければ散文的にならず、ちゃんと詩のことばにできるのかということで、非常に参考になる良書でありました。