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「葉書でドナルド・エヴァンズに」の電話

詩人・平出隆の『葉書でドナルド・エヴァンズに』(作品社、二〇〇一年)は、オールタイムベストの一冊。『ウィリアム・ブレイクのバット』(幻戯社、二〇〇四年)というエッセイで初めてこの著者の文章を読み、他の本も読んでみたくなってすぐに何冊か読んだ。図書館で借りて読んだこの本は特に気に入って、ぜひ現物を入手したいと思ったが当時すでに絶版。ネットで探せば買えるとわかっていたが、この本はなんとなく「どこかできちんと現物に出逢いたい」という気がしたので、すぐには買わずにいた。数年後、思いがけない場所で思いがけないときにこの本を見つけたときのうれしかったこと!

この本の内容はちょっと不思議だ。ドナルド・エヴァンズというのは、実在したアメリカの画家で、架空の国の架空の切手をひたすら描き、カタログ化していた人物。一九七七年、アムステルダムに住んでいたときに住居が火事に遭い、若くして不慮の死を遂げる。著者は、一九八四年に銀座のギャラリーで初めて彼の作品展を見て、ドナルド・エヴァンズという人物に興味を持つ。そして、遺族に手紙を出したり、アメリカ旅行やヨーロッパ旅行のついでに親戚や友人に会いに行ったり、ゆかりの地を訪ねたりするようになる。こうして何年かかけて足跡をたどりながら、その通過点でときどき、ドナルド・エヴァンズ宛てに葉書を書いた。発信地は、ニューヨーク、東京、アムステルダム、ベルリン、ロンドン、イングランドのランディ島など。

『葉書でドナルド・エヴァンズに』巻末の「ノート」にはこうある。

ここに収録される葉書は、一九八五年から一九八八年にかけてドナルドに宛てて書かれ発信された一八六通のうち、十余年をへた最近になって、いくつかの場所から散乱状態で、また部分的な欠損をともなって見つけ出されました。これらをできるかぎり復元し、再度日付の順番に並べ直したものが本書です。それでもおよそ四十通が欠落しました。発信者は、それら失われた葉書こそは、ドナルド・エヴァンズの世界に届いたもの、と信じたいようです。

平出隆『葉書でドナルド・エヴァンズに』「ノート」より

この本が出版されたのは二〇〇一年。一九八六年から八九年まで、平出隆がドナルド・エヴァンズに宛てた葉書はポーラ文化研究所発行の「is」という雑誌に連載されていたらしいのだが、そちらをあたれば欠落した四十通もみつかるのだろうか?

ドナルド・エヴァンズはもうこの世にはいないし、日本語もできなかっただろうし、著者は直接会ったこともない。それなのに、なぜか旅先で、友だちに出すような短信を綴るのだ。。実際には投函されない葉書たち。はっきりした宛先のない言葉。

「ノート」の記述そのものがどこまでがノンフィクションなのかも疑わしい。この本はとにかく全体的に現実ばなれしていて、浮遊感のようなものが味わえて、それがとても魅力でもある。

著者は、実際に「葉書」に文章を書いて、それを持ち帰ったのか?それとも、葉書を書くという体で原稿をしたためたのだろうか…我々読者はこの本を手にとってひたすら妄想するのみである。

平出隆の他の本と同様、『葉書でドナルド・エヴァンズに』も、装幀が美しく、細部までいろいろと吟味されているのがわかる。オフホワイトの少しざらっとしたテクスチャーの紙のジャケットがかかっていて、控えめに印刷されたタイトルと著者名は銀色。タイトルの上にはコバルトブルーで、ドナルド・エヴァンズの描いた切手の絵が印刷されている。本文中にもドナルド・エヴァンズの絵などがふんだんに引用されていて、見返しに使われている薄い紙は淡いピスタチオ色。このとても美しい本を手に、著者と一緒にドナルド・エヴァンズの足跡をたどる旅ができることは、このうえない幸せだと思う。

この本は、後になって他の出版社から形を変えて何度か出版されている。もっとも手軽に手に取れるのは講談社文芸文庫から出ているものだろう。解説や年表もあって資料としての価値も高い。

意外にも、筆者のドナルド・エヴァンズをめぐる旅でいちばん大きな役割を果たすのは、実は郵便ではなく電話だというのがおもしろい。この本の冒頭には、著者がドナルド・エヴァンズの両親に宛てた英語の手紙が載っているが、電話帳で調べても住所が見つからなかったため、そもそも差し出すことができないというエピソードが紹介されている。

そのあと、著者はニューヨークで友人の詩人を訪ね、ふと思いついてドナルド・エヴァンズのことを聞いてみる。すると、その詩人はあちこち電話をかけて、ドナルドの親友のアーティストの電話番号を手に入れてくれる。さっそくそのアーティストに公衆電話からかけてみると、彼はドナルドの従姉の名前と電話番号を教えてくれる。こうして、ようやく旅が始まるのだ。

ドナルドの個展を企画したギャラリストにも、公衆電話から電話をかけている。そして、そのギャラリーがもう現存しないことを知らされる。

自分は電話が苦手で、できるだけ使いたくない。この本の中で、著者が外国で、会ったこともない人にやや奇妙な要件で公衆電話から英語で電話しているのを、ひたすらすごいなぁと思う。それだけ、ドナルド・エヴァンズという人をより知りたいという熱意の強さが感じられる。

この文章には、直接的にはドナルドとあまり関係ない、折々の著者の私的な報告も挟まれている。長年勤めた出版社をやめたことや、祖母と大切な友人の訃報を、実際には会ったことはないドナルドに知らせている箇所があるために、この文章が友人向けに書いた私信であることが確からしく感じられる。闘病していた友人がついに亡くなったという知らせは、その妻からの電話で届くのだった。

葉書も電話も通信の手段であるが、この文章の中では、葉書はどちらかといえば故人であるドナルドの世界の、そして電話は著者が現在生きている時代の、現役の通信手段として機能している。一九八〇年代の話だから、当然といえば当然であるが、もっぱらインターネット経由の通信に慣れてしまった自分には、どちらもノスタルジックなものに思える。

手紙や葉書が届くということは恐るべきことです。そうではありませんか。郵便ポストや電話の受話器がのぞかせる闇の空洞は、久しくぼくの恐れてきたものです。

平出隆『葉書でドナルド・エヴァンズに』

小さな端末で、リアルタイムでのメッセージの交換も画面付きの通話もできるようになってしまった現在、その通信を支えている「闇の空洞」はよりとらえがたいものになっているように思われる。しかしながら、ポストや公衆電話のようにどっしりと地面に脚をつけた「入口」がなくなってしまったせいか、その「闇の空洞」の実感も、通信手段の神秘性も失われてしまったのかもしれない。


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