フーガの魔法? その2
前回(↓)の続きです。
なぜ、一番ピアノが弾けたころに手をつけたのにBWV903に挫折したのか?そして今になってなぜ弾けるようになったのか?今後の参考になるかもと思うので少し考えてみた。
今回譜読みしてみて感じたのは、とにかく冒頭から弾きづらい!音符は単純なのですぐに読めるけれど、非常に息の長い、半音階のスケールが続き、右手と左手の両方を使って滑らかにひかなければならない。リズムが把握しづらく、音の長さを正確に弾いても音楽にならない。若いときの自分にはこれがかなり難しく、「弾けている」感じがしなくてすぐに諦めてしまったのだろう。潮の満ち引きのような大きな流れを、「幻想曲」らしく、体で感じながら自然に表現するのは容易ではない。
今回も、最初は音楽にならなくて弾きづらいと感じたが、いろんな録音を聞いてみたり、細切れに弾いてみたりするうち、なんとかなりそうな気がしてきた。すぐに音楽らしくならなくても、自分が出した音を繰り返し聞くことで、自由に音を遊ばせるような感覚がつかめてきたような気がする。
J.S.バッハの時代には現在のようなピアノはなかった。この25年の間に、歴史的な楽器による演奏が盛んになり、この曲もいまや現代ピアノや古典ピアノなどいくつかの楽器の音で聴くことができる。実際には現代ピアノで弾くにしても、他の楽器で弾くとどうなるか、バッハの時代はどんな感じの響きだったのかを知っておくことは、とてもおもしろいし参考になる。25年前にはほとんどピアノしか知らなかったので、大きな違いだと思う。つまりは、音楽の知識が多少なりとも以前より増えたのが、弾けるようになった理由のひとつかと思われる。
先日、ピアノ教室の先生が書いているブログを読んでいたら、「バッハをさらう際には自分でフレーズを発見していくことが大切。そのためにも原典版を使いましょう」と書いてあり、なるほどと思った。
後半のフーガは、意外にもあまり苦労せずに譜読みができた。メインのテーマが出てくる箇所には譜面にマーク(貼って剥がせる赤い丸シールを貼った)。声部ごとにさらってみるといった基本的なことももちろんやった。
多声の曲は、それぞれの手でたくさんの音を弾かなければいけないので、指の独立が肝心だ。そのためには手指が柔らかくないといけない。腕や手首に力みがなく、いい感じに手指が柔軟に動かせていると、指が次第にあったまってきて、脳にいい刺激が与えられてるなぁというのを実感する。フーガを弾いていて気持ちがよくなる原因のひとつはこれかもしれない。
25年ぶりにピアノを弾こうとして驚いたのは、以前とはピアノ演奏に関する情報の量も質もずいぶん違うということ。音楽書の売り場に行くと、体の使い方の本がものすごくたくさんある。
自分も若いとき、ピアノ演奏における「体の使い方」の大切さをなんとなく感じていた。長時間練習すると腰が痛くなったりしたし、運動能力のなさゆえに弾きづらいのではないかと思ったりすることがあった。指を故障したりすることは幸いにもなかったが、たぶんそれは練習時間がそれほど長くなかったから(笑)
ここ数年ずっと右肩の痛みがあって、体の使い方を改善する必要を感じていたこともあり、昨年はとくに、体の使い方の本をいろいろ読んだ。その結果、椅子の座り方などが改善されて、いわゆる「脱力」が多少できるようになり、手指が柔軟に使える感覚がわかってきたのかもしれない。コンディションが悪かったりすると、どうしても手首の力が抜けずに指がうまくまわらない日もあるのだが。
そういえば、ピアノを再開して最初に練習した曲のひとつが、平均律クラヴィーア曲集第1巻のフーガ第16番BWV861、2019年のこと。いま思い出してみると、再開したてだったこともあり、このときはそこそこ苦労したのだった。多声音楽の練習法をいろいろ調べてみたり、声部ごとに書き写したりして、なんとか弾けるようにはなったのだった。思えば、このときの地道な努力の成果がいま出ているのか。BWV861も、いま弾いてみたら発見があるのかも。