ダビデの悲劇
(中高科のメッセージの原稿)
この箇所は、ダビデがエルサレムに神の箱を移すことで名実ともにエルサレムを首都にし、王位を確立したところを描いています。エルサレムはダビデが攻略した要塞都市でしたが、ここに政治機能と宗教機能の中心を据え、ダビデはここの王宮に住みました。
一見華やかなパレードですが、ここに至るまでのダビデの紆余曲折を考えると、ダビデの心の裏には悲しみが流れているようさえ思います。
ダビデが王につくまでの流れを今一度振り返ってみましょう。ダビデという主の信仰者の証を聞くつもりで場面を思い浮かべてみてください。
ダビデは八人兄弟の一番下でした。兄たちと違い羊の番をしていた彼はペリシテ人ゴリアテとの戦いに勝利して一躍サウル王に仕える戦士長になります。
しかし召し抱えられた瞬間から、サウルをも上回る戦士としての才能を謳われてサウルが激怒します。サウルはダビデを殺そうとしますが、ダビデを愛したサウルの息子にして戦友のヨナタン、またサウルの娘でダビデの最初の妻であるミカルによって難を逃れます。
ダビデは、自分を憎んだサウルに善意を尽くしました。その言葉に打たれてサウルは一時的には和解の言葉を申し出たりもします。なお、この時にサウルはダビデに自分の一族を絶やさないよう誓わせました。
ダビデはサウル王に殺されることを恐れてついに外国への放浪生活に入ります。そしてダビデ不在の中、イスラエルはペリシテ人と全面戦争となり、サウルとヨナタン含む息子三人が戦死します。これを聞いたダビデは哀歌(=悲しみの歌)を詠みました。これを読むとダビデがサウルを、またヨナタンを深く想っていたことが分かります。
サウルの死後、(北)イスラエル王にサウルの子イシュ・ボシェテが、(南)ユダ王にダビデが即位します。イスラエルとユダは戦争状態になりましたが、イシュ・ボシェテの将軍アブネルのもと、ダビデが南北を統一する機運が高まっていました。
しかしそこへダビデの将軍ヨアブがアブネルを殺害、またサウル家側の従者がイシュ・ボシェテの寝首をかいてダビデに献上します。こうしてダビデがエルサレムへ居を移し、イスラエルとユダを束ねる王になったのです。
ダビデはずっとサウルの後の王として望まれていました。しかしサウルの家が絶えないようにするという誓いがずっと頭にあったはずです。果たして、サウルと四人の息子はみな命を落としました。ダビデがサウルにとどめを刺した者とイシュ・ボシェテの寝首をかいた者をやってきたその場で従者に殺させたのも、この誓いが関連しているでしょう。(今日の箇所の後で、ダビデはサウルの家の男子の生き残りを探し、ヨナタンの息子メフィボシェテを王宮に迎えます。)
ダビデは失意の内に統一王国の王となったのではないでしょうか。
表面上はダビデはとても恵まれた王です。戦士として向かうところ敵なし、見目麗しく琴の名手で、首都の制定にもその政治的手腕が見て取れます。神に常に伺いを立てる態度はこの6章にもよく現れており、律法に従って神の箱を人力で担ぎ上げることでウザの事件を乗り越えます。主の前に跳ねて踊る様は、やり過ぎのような気もしますが彼のまっすぐな信仰を表しているのでしょう。
しかしそこに水を差したのは、かつて自分を愛していたはずの妻ミカルでした。外国逃亡中にサウルによってよその男に与えられてしまうものの、アブネルとイシュ・ボシェトを介して取り戻した、最初の妻。サウルの娘である彼女はこの後、王の寝室に呼ばれなかったのだと思われます。サウルの家の興隆がここで終わりを見ているようです。
ダビデは、どうにも、人を愛するのが上手くない。
サウルに疎まれたこと。王の婿になるにもやけに卑屈で。和平交渉も部下のせいですれ違う。そして自身が望まないうちに殺されたサウルの家の者たち。彼の周りで起こっているひとつひとつのうまくいかなかったことが、離れてみると大きな線を描いているように見えます。
イスラエルとユダの全ての人がダビデを愛したと書いてあります。サウルも、ヨナタンも、ミカルも。でもダビデは周りに愛を向けることができなかったのか、ダビデが誰かを愛したとは書いていない。冷遇された末っ子は愛を知らなかったのかも知れない。あれよあれよと召し抱えられてから向けられた愛に応える術を持たなかったのか。何か決定的にうまくいっていないことがある気がする。
事実、この後、ダビデはバテ・シェバという人妻を王宮に呼び寄せて一夜共にし、妊娠させてしまった。それどころか、夫を前線に送り出して死なせます。王の立場の強さを考えると、実情は性加害だったとすら思える。
この、人間関係で取り返しのつかない失敗をしたダビデの、人格的な欠けというか、弱点は、彼の人生を通して彼の生き様に何か暗い影を落としているように思えるのです。
ダビデは神の前に正しくあろうとしましたが、だからこそ人間関係の不器用さが目立ちます。バテ・シェバの件も預言者を通して神に指摘されてからは激しく後悔します。しかし、これ、どうにかならなかったのだろうか。
これが、イスラエルきっての王の、一信仰者としての現実です。
今日の箇所を今一度見てください。神の前に正しく熱心なダビデ王と、首都エルサレムの栄える様子が見える一方で、妻ミカルの冷ややかな目線とそれに対するダビデのぶっきらぼうな反応があります。このすれ違いは昨日今日の話ではないはずです。
ダビデは幸せだったのか。
ひとつ言えるのは、その天才で愛され上手なくせに、他人とうまくやれない上、失敗をやらかすそのダビデは、主により頼むというあり方で、それでも多少ましな生き方をしていたのかも知れないということです。
少なくとも預言者の声には耳を傾けることができたから、悔い改めることができた。少なくともその信仰と態度を見たから、多くの人が彼を愛した。
ですから、ここまで見てきたダビデの心に触れて、その苦難というか悲劇というか、決して順風満帆でない足跡が、今日生きる信仰者を励ますことになればいいなと思います。