タムコックの楽園@ベトナム
朝の光が差しこむ庭園。
赤い瓦屋根にはブーゲンビリアの花が蔦い、生垣の奥には小さなキッチンが佇んでいた。緑溢れる庭園を囲むように、趣ある客室の扉が並ぶ。その脇には木製の小さな棚とリクライニングチェアが一つずつ置かれ、朝の光を浴びて朧げな雰囲気を帯びていた。その一つに腰かけて中庭を眺めていると、なんだか平安時代にでも来たかのような錯覚に陥る。
しばらくそこに腰かけたまま本を読んでいると、マダムに朝ごはんよと言って手招きされた。中庭のテーブルに運ばれた朝食はフォーのようなヌードルスープ。柔らかな丸い米麺、あっさりとしたスープに小さなドルマのようなものが卵でとじられていて、混ぜながら食べてと言われたお皿にはもやしが大量に盛られていた。日本で食べたことのあるようなものとはまた少し違う。鶏のだしでとられたスープは目覚ましには優しく、その奥に潜む力強さに背中を押される。そして食後に出されたカフェスアダー(Cà phê sữa đá)は、この楽園に沁み入る夏の声だった。
どうしよう、もう一日中ここにいたいかも。ダラダラ本を読んだり日記を書いたりしたい。チャンアンにも山にも行かなくていいかも、と思わせてくるタムコックの楽園。
これまでたくさんの宿に泊まってきたけど、居心地の良さというのは一つの尺度で測れない。家族経営のアットホームな宿であっても、必ずしも居心地がいいとは限らない。清潔であってもなぜか逃げ出したくなるような宿や、溺れたいほどセンスが良いインテリアなのに途中から見たくなくなる宿もある。なぜだ、なぜなんだ。バニラアイスのように甘美なままとろけてしまいそうな居心地の良さはどこからくるんだ。
二日目の朝ごはんは先日と違うものを出してくれた。ブンチャーのようなつけ麺、そして相変わらず贅沢にカットされたパイナップルとバナナ、カフェスアダー。
はちきれそうなお腹を抱えてリクライニングチェアへと移る。フルーツとコーヒーをそばに置いて本の続きを読み始めた。二度寝でもしようかしらと思ったけれど、朝の庭園があまりに気持ちが良くそこから離れられないでいた。足元では二匹の子猫が転がりながら戯れている。
絵に描いたような光景に、ほうっとため息が出る。呆れてしまうほど穏やかで美しい。
ひとまず、Thom's house の居心地の良さはどこからくるのか考えてみた。小さな中庭、適当に配置された椅子とテーブル、アウトサイドキッチン、人懐っこい犬と
二匹の子猫。場所も良い。メインストリートから少し離れた場所に位置し、穏やかな静寂に包まれている。それだけではない。アンティーク家具で統一され、70年前に建てられたという平家の石柱には、寺院と同じように仏教の格言のようなものが彫られていた。文化的な香りが漂う。
でもどうもそれが答えにはならない気がする。
朝食の後片付けを終えて、テーブルで一息ついていたオーナーにずっと気になっていたことを聞いてみた。
「なぜこの宿を始めようと思ったの?」
以前は台湾で建築関係の仕事をしていて、帰国後はハノイで仕事をしていたらしい。メニーメニーワークと言っていて実際何の仕事をしていたのかは知らない。コロナになってこの町に戻ってきて、そして祖父が建てた美しい平屋を改装して宿を始めた。
「この町にもっと人が来て欲しくて。ハノイやホーチミンには人がたくさんいるけど、ここには人があまり来ない。」
昨夜ベトナムでどの町がおすすめ?と聞くと、I love my town と清々しい笑顔で答えた彼。
「僕はこの町が好きだから、だからここにいる。君もこの町を好きになってくれたら嬉しい。」
帰り際、この後どうするのと聞かれたので、タクシーでニンビンまで行って、そこからバスでハノイまで帰ろうと思ってると言ったら、リムジンバスならこの宿からハノイの宿まで200,000VNDだよと言ってすぐに手配してくれた。手間も価格も半分以下になった。どこまで気がきくんだこの人は。
そうしてバスのお迎えを待っている間、君に会えて良かったと言ってハイタッチをしてくれた。控えめで程よい距離感を保ちながらも、滞在中ずっと温かい笑顔を向けてくれたオーナー。終いにはこの爽やかさである。
ああ、この人だからだ。
この人からくるんだ、この居心地の良さは。
唐突に降ってきた答えに少しばかりショックを受けた。心のどこかで分かっていたようで、分かっていないふりをしてきた答えだったから。もっと複雑に考えた末に見出したような、論理的な答えを望んでいたのに。
だって、宿の居心地の良さはオーナーの人柄から来ますなんて、そんなありきたりで曖昧な答え面白くもなんともない。それだったら文化的な香りがするからだとか、アンティーク家具が味を出しているからだとか、平屋の手入れされた庭園が美しいからだとか、そういった理由だったら良かったのに。
でもそれらは枝葉でしかない。居心地の良い空間を描出している枝葉。その根っこにあるのは紛れもなくこの空間を生み出しているオーナーのエネルギーそのものである。
最後の最後に見つけてしまった答えを握りしめて宿を出た。バスに揺られながら、風で揺れる稲穂にタムコックでの日々を託す。また大事なことを一つ教わった気がした。