大人の涙のカタルシス
先日、人前で久々に泣いた。
感動や嬉し涙を見せるのは良しとしても、辛いしんどいといった感情が込み上げて人前で泣くのは苦手だ。圧倒的な弱みを見せているようで恥ずかしいのと、相手を慰めざるをえない状況にさせることが申し訳ないやらで、いたたまれなさの境地となる。そんな訳で泣いてしまったあとはたいてい後悔が残る。しかし最近仕事やプライベートで虚しくなってしまうようなことが続いていて、思わず涙があふれ自分でも驚いた。「涙を見せてしまった人たちが心を許せるかたがたであったこと」×「お酒」×「都会の喧騒」という感涙方程式が完成し、スクランブル交差点で人目もはばからず泣いた28歳秋の東京事変。
事変の前兆は前日からあった。深夜に重めのメッセージがピコンと届き「あ、ちょっともうしんどいな」とそっとパソコンを閉じた。こういう時、東京の雑踏に心をうずめたくなるのは、浸り癖なのだろうか。なんにしても自分の存在を都会の喧騒に消してほしいと思った。ところが埼玉の田舎であるわがまちには、雑踏も喧騒もない。深夜は店という店がしまり静まり返っている。外に出たら余計に自分の存在が際立って虚しくなってきたので、車で24時間営業のスーパーに向かった。無機質な蛍光灯に照らされ、深夜にふさわしくない(と言ったら失礼だが)とても礼儀正しいパートの女性の方がレジをしてくれ、少し心が和らいだが虚しさは消せずに家路についた。
そして次の日、事変が起こったのである。路行く人々が行き交う中、うぇんうぇんと泣きながら「あーあ、やっちゃったね」ともうひとりの自分が言っている。しかし、ひとしきり泣いたあと「さあ後悔が訪れるぞ」と身構えたら、心が軽くなっていることに気がついた。わたしに泣かれたかたは嫌な顔ひとつせず、場所を移して本気で心配して話をきいてくれた。感情を言語化することでのカタルシスとぶち当たっている課題への改善策のどちらもえることができて、晴れやかになる気持ち。
大人になってから人前で泣いて話を聞いてもらったことで、前向きな気持になったのははじめてのような気がする。上手く弱みを見せられないタイプの自分にとっては、大きな発見であり、あたたかい瞬間だった。飲み会の後に泣き出す、というサラリーマンあるあるといえばあるあるなめんどくさい状況にも関わらず、誠実に心配してくれたあのときのみなさんに心から「ありがとう」と言いたい。さすがに「すっきりするからまた泣こう!」とはならないが、少し自分に優しくできたような気がした。