発信者なのに発信がこわい
Instagramをお仕事で使いはじめてから、3年ほどになる。
おかげさまでフォロワーさんも1.2万人ほどいてくれて、他のメディアの方々からも公式アカウントとして投稿しないかと声をかけていただくことが増えた。
本当にありがたい。
インフルエンサーというのはこそばゆいので、あんまり名乗らないけれど、「見てね」と、不特定多数の人に言葉と写真で伝えている。
でもわたしは発信するのがこわい。
特に最近はめちゃくちゃこわい。
noteでの投稿がとまってしまったのも、
発信が怖くなったことが一因にある。
先日大ファンのMrs.GREEN APPLEさんが炎上した。
「コロンブス」という曲のPVに差別的な表現を含むという内容だった。
たしかに、コロンブスという歴史的に明暗わかれる二面性をもつ人物を主役とした歌に、誤解を与えるような表現があったとは思う。
でももちろんボーカル&ギターの大森さんはじめ、制作したクリエイター陣はわざと差別的な表現をしたわけではない。
大森さんも自分の言葉で伝えているように「キーワードが意図と異なる形で線で繫がった時に何を連想させるのか」という点で傷つけてしまう人がいたのであって、故意に過激な主張をしたわけではない。
表現という行為に対して、受け手側が複数の解釈を伴うことは常だし、発信者側の配慮がどうしても至らず、想像が及ばずに、手の届かない「誰か」に嫌な気持ちにさせてしまうということはどうしたって起こる。
さらに、いちばん怖いのは、一度過ちを犯すと二度と許してもらえないような空気感だ。
高校三年生の甲子園のように、一生マウンドに立つことは許さないというほど過度なバッシングをうける。
最近だと、フワちゃんのツイートもそう。
たしかに言葉は乱暴だったかもしれないけれど、間違えてしまったと自覚して、誠心誠意やす子さんに謝って、許してもらえたと言っているんだから、もう二人に会ったことのない外野がなにか言えることじゃないのではと思う。
自分の人間関係の不和に知らない誰かが入ってきたらみんなびっくりするんじゃない?
わたしは、Mrs.GREEN APPLEやふわちゃんのように有名人ではないけれど、自分の意見や気持ちを世の中に出すということは、誰でも調理できるまな板の上にのせるのと一緒。
切るなり、刻むなり、煮るなり、焼くなり。
好き放題しても文句は言えない。
見てもらいたい人が増えれば増えるほど、コメントも気になるし、人の目も気になる。
こわいという感情がどんどん大きくなっていく。
うっかりを通り越したトンチンカンをやらかすわたし。
失敗からしか学んでこなかったのに、一度も失敗ができない環境で何をかせんや。
ああ、もう発信しないほうがいいんじゃないか。
そう思う時、天の声で、
「もうちょっとやってみたらええんちゃう?」
と言ってくれる作家さんがいる。
岸田奈美さんだ。
心底尊敬する作家さんの一人で、ご自身の家族のこと、人生のことを愛ある言葉で紡いでいく。
わたしだったら心の奥に鍵をかけて閉じ込めてしまいそうなことも、フフっと笑わせる魔法をかけて、そのストーリーを必要としている誰かにそっと届ける。
発信者の鑑。
話しのネタもそうだけれど、言葉の選び方、表現の仕方も秀逸で、きっと岸田さんの頭には、言葉がダムのように貯水ならぬ貯言されていて、いざ書くとなるとドバドバと言葉たちが放流されていくのだと思う。
岸田さんのエッセイを読んでいると、どうしてもまた書きたくなってしまうし、発信したくなってしまう。
発信するのが怖いという話から、好きな作家さんの話にだいぶ逸れてしまった。
でもそうだ。
好きな人を好きなことを好きなものを声を大にして「好きだ」と言いたいから、発信をはじめたのだった。
仕事柄いろんな地域に行くことが多くて、その場所の魅力を、そこで会う人の魅力を伝えたかったことが一番の理由だった。
発信が怖いといいながら、結局は好きな人の話をしてしまう。
やっぱりもう少し発信者でありつづけたい。