奈良随一の近代城郭 大和郡山城跡を巡ってみた
近鉄の郡山駅から西大寺駅方面へ出てすぐ、進行方向左手に城が見えます。
これは、奈良でも随一の「大和郡山城」の跡です。
近鉄で何度もこの風景は見てはいるのですが、今回初めて城に登ってみました。
この大和郡山城ができたのが、1580年のこと。
大和国(現奈良県)の戦国大名だった筒井順慶が、この地に城を建てたのが始まりです。ちょうどこの時代ごろから城に天守閣を建てるのが流行し始めた頃で、大和郡山城にも天守閣がありました。
天守台の上に登ると奈良盆地が360度見渡せます。
北東方向を見ると、若草山も見えます。そして、肉眼であればその麓に興福寺の五重の塔も見えます。
この郡山の地形は四方の軍勢を捉えるにはうってつけでした。
筒井順慶が亡くなった後は、豊臣秀吉の弟である秀長が大和郡山城に入城します。その秀長により大和郡山城は、城下町と一緒に整備されます。
ただ、大和郡山城の石垣を見ると、豊臣政権時期に建てられた城にしては、石垣が若干荒いのです。
というのも、同時期に建てられた城は、切石で積み上げられたものが多いのですが、何とかして石材を各地からかき集めて来た感じがします。
それもそのはずで、奈良は石材が乏しい土地で、短期で城の整備をしたために、墓石や石仏なども供出されていたのです。
関ヶ原の戦いの後、しばらくは廃城になっていましたが、江戸時代に入ってから城が再整備されました。17世紀の間は領主が頻繁に入れ替わりしていました。
しかし、18世紀になって、徳川綱吉の側用人だった柳沢吉保の子・吉里が甲府から、大和郡山に転封になってから、大和郡山城は柳沢家の城となります。
この柳沢神社は、柳沢吉保・吉里父子をしのんで明治時代になってから建てられたものです。
明治時代になってから、大和郡山城の建物は破却されてしまいます。
現在は、二ノ丸のあった場所には郡山高校が建てられていたり、三ノ丸には市役所があったりします。
城のかつての廓の中に、その地域の進学校や役所が建てられることは決して珍しいことではなく、各地で見られる現象です。
また、鉄道のでき方も面白いのです。
というのも、明治に建てられたJRの関西本線(大和路線)は旧城下町の外に引かれているのに対して、大正になってから建てられた近鉄橿原線は二ノ丸と三ノ丸の間にある堀と並行して線路を引いているです。
大和郡山城を歩いていると、近鉄の列車が走る音がしばしば聞こえてきます。
JRの路線を見ると、明治時代初期の元城下町の境界線が見えることが多々あります。大和郡山もまたやはりそのような場所だったのだと納得したのでした。
奈良には行きやすい場所にある城はほとんどありませんが、大和郡山城なら奈良のどこかに寄ったついでにフラッと見られる場所なので、戦国時代にも興味のある方であれば、面白い場所だと思います。
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著者ページ
「京都観光のいろは」
「鉄道唱歌でめぐる沿線写真集 関西編 大阪~伊勢めぐり」
「鉄道唱歌でめぐる沿線写真集 関西編 奈良・和歌山めぐり」