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旅する音楽 8:アントニオ・カルロス・ジョビン『Wave』 - 過去記事アーカイブ

この文章はJALの機内誌『SKYWARD スカイワード』に連載していた音楽エッセイ「旅する音楽」の原稿(2015年5月号)を再編集しています。掲載される前の生原稿をもとにしているため、実際の記事と少し違っている可能性があることはご了承ください。また、著作権等の問題があるようでしたらご連絡ください。

ボサノバのリズムに乗って、地図上の旅へ

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アントニオ・カルロス・ジョビン『Wave』

 働き始めた20代は、慢性的に五月病を患わずらっていた。決して仕事が嫌なわけでもなかったし、多少のストレスは抱えながらも楽しく生活しているつもりだった。でも、年度をまたいでゴールデンウイークあたりにさしかかると、なぜか急にすべてを投げ出してしまいたくなるのだ。

 そんなときの治療法は、いつも決まっていた。まず、思いきって「今日は休みます」と仕事場に電話。次に、長居しても気にならない居心地のいいカフェに、大量の音楽と一冊の地図帳を持ち込む。そして、ヘッドホンから流れてくるお気に入りのサウンドに身を委ねながら、ゆっくりと世界地図を眺めるのだ。絶海の孤島で見る紺碧の大海原、生命の気配のない広大な砂漠、しんと静まりかえった明け方の遺跡、夕日に照らされた大都会の摩天楼、喧噪にまみれたバザールの食堂の匂い。そういったまだ見ぬ風景を想像しながら、地図上の見知らぬ国や街を探すだけで、いつしか前向きな気持ちになっている。ついでに次の長期休暇の予定も立ててみたりして……。

 そんな自己流の治療に欠かせない特効薬が、アントニオ・カルロス・ジョビンの名盤『波』だった。言わずと知れたボサノバの創始者であるレジェンドが、米国で録音した代表作だ。ブラジル音楽のことをあまり知らなくても、タイトル曲の「波」をはじめ彼のメロディーはどこかで聴いたことがあるだろう。インストルメンタル中心で歌入りは一曲だけだし、流麗なオーケストレーションを施しているので、人によってはただのイージー・リスニングに感じるかもしれない。でも、上質のリゾート・ミュージックであり、あっという間に地球の反対側まで心をもって行ってくれる。旅の計画を立てながら聴くのに、これ以上の作品はない。

 とまあ、こんな文章を書いていたら、旅の虫が騒ぎ始めてしまった。今僕は、キリンが跳びはねる写真がデザインされたアルバム・ジャケットと、本棚に収まった分厚い地図帳を、横目で交互に眺めている。

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