036.海からしか見えないもの
2002.10.22
【連載小説36/260】
この週末、海野航氏、ナタリーと3人でアウトドアミーティングに出かけた。
(「週末」という表現の持つ休日性に違和感を感じる。この島ではウィークデイとウィークエンドの質的な差などないからだ。単に出かけた日が土曜日だったということになる。)
そして、その心地良い浮遊感の余韻が今も残っている。
僕らはシーカヤックで海に出たのだ。
島の南西部の海岸沿いを漂い、語り合いながら海上の半日を過ごした。
さて、トランスアイランドのエージェントとしての3人に共通する因子とは何だろう?
海や島が好き。
重ねてきた様々な地を巡る旅と共にある人生。
現代文明に対する憂いとその解決への使命感。
これらはもちろんだが、僕が気づいたのはその精神の立脚点。
「主観」と「客観」、「絶対」と「相対」を行き来する心とでもいえばいいだろうか?
海野氏は過去という時間、ナタリーは地球という空間、僕は物語という非現実。
それぞれは絶対たる自己でもって、それを包むあまりにも大きな他者と向き合う。
ある意味で「孤独」、ある意味で「不安定」。
それが小船で大海を漂う感覚にとても似ているように思えるのだ。
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「海からしか見えないものがある」
海野航語録にして、3人に共通する認識だ。
カヤックに乗って島の岸辺から離れた途端、僕らは物理的には地球表面積の半分近くを占める太平洋上の人になる。いや世界中の海はひとつに繋がっている訳だから、地球の約90%側としたほうがいいかもしれない。
そして、もうひとつのポジション。
陸という人類のテリトリーから離れた途端、そこに位置する者は人類を客観視する他者の視点を手にいれることができる。
それは魚のものであったり、鳥であったり、時に神であったり…
海野氏の場合。
その活動が主に環太平洋地域であった彼の文化人類学者としてのフィールドは、半分が海であったといってもいい。
熟練のシーカヤッカーでもある彼のフィールドワークは、対象地域の周辺海域から始まるそうだ。
陸地から少し離れた海上からの観察を行うことで、地形的特徴や植生、人類の生活痕跡などはもちろん、そこに過ごした人々の心が見えてくるという。
それが島であればなおさらで、未開の地を目指した最初の人の視線を持つことで、そこで積み重ねられてきた悠久の時間にさえ瞬時に触れることができると聞いたことがある。
ナタリーの場合。
地球温暖化防止や淡水・海水域保全という彼女の主テーマは、そのまま海のエコロジー活動といってもいい。
マングローブに代表される繊細な水際環境へのアプローチには、ローインパクトな移動手段が必要不可欠だから、彼女もまたカヤックやボートを巧みに操る人だ。
また、島々の水没危機を引き起こす地球温暖化に伴う海面上昇を、文明と自然の対立構図指標と考えるナタリーは、時に海上に身を置くことで、その現実を心のレベルで感じるようにしているという。
で、僕の場合…
ふたりほどの職業的必然性がないので、列記するのも憚られるのだが、僕は創作のためにただ海に浮かぶ。
物語は生き物だ。
たとえそれを生み出す作者でさえ、その行方を見失うことがある。創作の行き詰まりということではなく、無数に可能な進路の選択に迷うというイメージかもしれない。
そんな時僕は、未完成のストーリーを伴ってカヌーや友人に借りたロングボードで凪いだ海に出て、ひたすら浮遊する時間を持つことにしている。
微妙に上下する大海のリズム、肌にあたる貿易風の心地良さ、眩しい空の青…
実はそんな自然の力が物語の続きを方向付けてくれること多々なのである。
そう、海からしか見えない物語の行方というものが存在するのだ。
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文章を扱う僕が、改めてこんなことを記すのもおかしいのだが、時に言葉とは、整理しきれない思いをなんと端的なカタチに仕上げてくれるのだろう…
「浮遊感」
まさにこの表現が僕の心の状態を正確に示してくれている。
「放浪」の人生を重ねた後、小さな島に「定着」したにもかかわらず、自身の中に揺るぎ無く存在する「流れ」のようなものを僕は上手く表現できないままでいた。
が、海上で過ごした時間が、いとも容易く五感のレベルでその答を示してくれた。
そう、僕はどこにいようが、何をしていようが、あるひとつの「海」に浮かんでいるのだ。
そして、そこからしか見えないものがあることを既に知っている。
これからの時間も、ただ浮遊し続けるだけでいい。
見るべきもの、見なければならないものは次々とそこに出てくるのだから…
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。
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