075.追憶の中の原風景
2003.7.22
【連載小説75/260】
遠い昔、人類が生まれる遥か前。
地球がまだ汐と泥で混沌としていた頃。
天上界がふたりの神様を下界に使わした。
「イザナギ」と「イザナミ」という名の彼らは、天の浮き橋から沼矛を海に下ろし、かき回して引き上げた。
すると、矛の先から滴り落ちた雫が固まって最初の固い土地が誕生した。
これが「おのころ島」である…
日本最古の文献『古事記』にある、この「国生み神話」の舞台は諸説あるが、淡路島の南、海上4kmのところに浮かぶ沼島が有力とされている。
神戸の街でレンタカーを借りて西を目指し、明石海峡大橋で淡路島へ渡る。
高速自動車道をひたすら南へと島を縦断し、国道28号線を経て、土生港へ。
この港から出ている片道10分の汽船便で、僕は沼島へやって来た。
30年を経ての再訪になる。
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先週、心地良い風の吹く神戸の埠頭で、僕は緩やかに失われていく故郷を実感した。
と同時に、忘却の彼方から蘇る何かを感じていた。
遠い過去の残影や残光、残り香に注意しながら、すっかり様変わりした神戸の街を無目的にあれこれ巡る。
そして、記憶の断片を集めた僕の中で、幾つかの光景がスライド写真のごとくその輪郭を現した。
神戸港からの船出と甲板から投げた紙テープ。
瀬戸内海の穏やかな波をきって進む中型のフェリー。
子供心に神秘的に映った初めての島。
その島の断崖に上って見下ろした悠然たる外海。
その向こうに見た真紅に染まる水平線。
そう、追憶の中に蘇ったのは、小学3年生の夏に親元を離れて出かけた沼島へのキャンプの思い出だった。
あるはずのない財宝を求めて岩場を探索した海賊ごっこ。
キャンプファイヤーの揺れる炎と、間近に聞こえる波音の向こうに感じた精霊の気配。
シュラフに包まって、満点の星空の元、眠ることも忘れた静かな夜。
多感な少年期に生活圏を脱して大いなる自然に身を置いたひと夏の体験は、青年期に模索する漠然とした未来に深き部分で影響を及ぼし、そこで方向付けられた人生を歩む中でじっくりと熟成されていく。
僕の南方巡りの半生は、既にあの頃スタートをきっていた…
そう気付くと、いてもたってもいられずこの島を目指すことにしたのだ。
改めてこの島のことを調べると、考古学的に興味深いところが多い。
日本人のルーツに、黒潮をつかまえて北上した南洋諸島からの集団航海説があるが、面積2.63平方kmという小さな沼島には縄文から弥生時代にかけての土器や古墳石室が出土しているのだ。
日本という国への人類による最初の第一歩が、遠い南の島からやってきた航海の民によるものだったかもしれないという推論に対して、長き航海の末に太平洋沿岸に辿り着いた彼らが、暮らすに適した場所として穏やかな内海の瀬戸内海を選んだという筋書きは想像に難くはない。
そして、神話といえども、それが物語である以上、遠い過去の何らかの事実がモチーフになっている可能性は高いから、「沼島=おのころ島」説の信憑性は高い。
僕のルーツも、ある意味で沼島にあった。
おそらくこの島の神話性など知らなかった幼少の僕に対して、「国生みの島」がその魔法で魅力溢れるその後の旅の人生を与えてくれた…
そう思うことで、自らに流れる長い時間が一本のラインに繋がった思いがある。
誰の中にも、その後の人生を決定付ける原風景というものがあるのだろう。
僕にとってのそれは、生まれ育った神戸の街ではなく、きっと、この小さな島におけるひと夏の体験だったのだ。
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歴史あるところに神話あり。
神話とはヒトと自然の根源的関わりが長き時間をかけて生み出す熟成のフィクションだ。
トランスアイランドを離れて2ヶ月。
外から島を再見してみて、そこにどこか脆さや儚さを感じるのは、誕生したばかりの島が、まだまだ神話なき初期段階にすぎないからだろう。
では、21世紀に生まれた島に神話が生まれ語られるのはいつか?
もちろん、それはずっと先だ。
少なくとも、我々開拓民の時代に神話など生まれるべくもないし、我々の島を次代へ繋ぐ努力なくしては小さな神話の誕生さえ望めない。
為すべきは、今歩む道の遥か遠き先に誕生する神話を夢見て日々を充実させることのみだ。
「遠い昔、21世紀の初頭。この島にひとりの語り部あり。島と海を愛するその男は太平洋上の島々を巡り、様々な友で出会い、語り…」
こうやって記す手記がそんな神話のモチーフになるかもしれない、と夢想するだけで旅を続ける僕の日々は充実する。
いや、夢ではない。
いかなる神話も、誰かが語った小さな物語が遠く旅して、熟成した結実なのだから。
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。