077.漂流は何処を目指す?
2003.8.5
【連載小説77/260】
300年前の話。
ひとりの商人が船で大阪から江戸を目指したが、途中嵐に遭遇した。
伝兵衛という名のその男は、長い漂流生活の後、ロシアへと辿り着き、記録上はじめての日本人漂着者として彼の地で生涯を閉じた。
江戸時代の漂流物語を題材に、海に潜む危険とそこを目指す航海の持つ意味、さらには海の民の精神力と彼らを待ち受けた過酷な運命に触れることのできるミュージアムイベントに出かけた。
「なにわの海の時空館」の「漂流展」だ。
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ここ数日、大阪で博物館巡りを続けている。
知恵と知識の集積たるミュージアムから人間や自然を観察する行為は、都市観光のひとつの魅力といっていい。
歴史博物館で過去の時代へ、科学館のプラネタリウムで遠い宇宙へ、水族館で深い海へ…
街にはヴァーチャル紀行を可能とする知的装置が点在している。
その中でも、この博物館はよかった。
「海の時空」というコンセプトそのものが奥深く、トランスアイランドにも冠したいくらいだ。
海と文明の関係は古い。
コロンブスの新大陸発見やバスコ・ダ・ガマのインド航路開拓、マゼランの世界周航などに代表される15~16世紀大航海時代におけるヨーロッパの世界進出が現代のグローバル社会の面的礎であることは紛れもない。
さらに遡れば、マルコ・ポーロは13世紀に「東方見聞録」を残しているし、地中海や紅海に栄えた紀元前の文明都市の記録にも様々な海上交易と船舶が登場する。
近代に話を戻そう。
18世紀のワットによる蒸気機関の発明は、産業革命の嵐の中、海上輸送の大型化、スピード化を実現した。
陸を制した人類が、海を自由に行き来する術を得たことで地球全体を手中にせんと目論んだ。
その延長線上に世界がネットワークされ、ヒトとモノが自由に行き来可能な現代文明があるのだ。
そんな人類の成功談の陰に、違った次元で伝兵衛の「漂流」談がある。
いや、彼だけではなく、現代においても個人レベルの航海が自然の気まぐれの前に「漂流」へと引き込まれる事例は後を絶たない。
(同博物館には、そういった事例も展示されていて興味深い)
我々はそこから何を学ぶべきなのか?
海を制してきたマクロとしての人類発展史の一方で、ミクロの漂流史は、太古から変わらぬ過酷な中身のまま、今もその歴史を重ねている。
自然が一度飲み込んだ漂流者の一部を、無事こちら側に生還させてきた背後にあるのは、どれだけヒトがテクノロジーの部分で進化しても、生身で海と向き合う関係性そのものは過去も未来も変わらないという一種の警告なのかもしれない。
時空館を後にした僕は、大阪ミナミの繁華街に出て、夜の街を歩いた。
心斎橋筋商店街を歩くと、まるで何処からヒトが湧き出ているのではないかと錯覚する。
もちろん、その源流を求めて歩き続けても泉などありはしない。
南北に走る御堂筋に出て、無数のヘッドライトに目を細めると、まるで川底に潜んで稚魚の群れを見物するかのごときだ。
漂流している…
そう感じた。
文明という大舞台においては、目的地を持つ者も行く先を見出せずにいる者も万民が悠久の時空レベルの流れやうねりに身を委ねる漂流者だ。
いやヒトだけではない。
車もビルも道路もネオンも…、そう社会さえもが漂流者なのだ。
が、その漂流感は僕にとって決して悲観的なものではない。
多分、沈んで終わることなく、いずれ何処かへと辿り着く。
街の喧騒を客観視する目に途切れないヒトの流れが類なき生命力として映るから、そう感じるのだろうか。
思うにままならない人生や運命を受け入れてはじめて、ヒトは安住の地を得る。
日常の諸事に溺れることなく、見えない遠い未来にささやかな希望を持って淡々と日々の祈りを重ねればいいのではないか?
そう、ミクロの充実が集積する先にあるマクロの明るい未来を、一種の楽観と共に待つ「漂流」だ。
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宇宙レベルの時空を思う時、地球さえもが漂流する小船だ。
その地球の中で、大阪の街も日本という国も、他の文明国家も、全てが漂流している。
もちろん、トランスアイランドも…
僕らを包む大きな漂流はいったい何処を目指しているのだろう?
さらに夜の街を歩く。
すれ違う恋人たちの幸せそうな笑い声が耳に届く。
一方的にそれを受け取った僕の心が軽くなる。
恋をなくしたのか、街角に佇んで携帯電話を見つめ、涙を流す女性も目に入る。
彼女に届いたメールの向こうにある悲しいドラマを知らぬ僕に、光る涙はただ美しい。
夜空に視線を移し、トランスアイランドの満点の星空を思い出しながら、地上に落ちてきた都会の夜空に幾つかの流れ星を見たような気がした。
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。