093.鯨捕りの孤独
2003.11.25
【連載小説93/260】
今日は久しぶりに誰にも会わず、ひとりの一日を過ごした。
そして、ラハイナの町で手に入れた彫刻品を見ながら、いにしえの物語を空想していた。
作家とは如何なる職業なのか?
執筆や創作とは如何にして行われるのか?
と、島内でもよく訊ねられる。
傍目から見れば、散歩しているか、読書をしているか、誰かと語り合っているかののどかな日々。
一般的な職業という概念からすれば、仕事外のことばかりに時間を費やしている男。
姿を見かけないと思えば、どこかへ旅していて帰る予定も不明確…
確かに、僕のようなライフスタイルは平均的社会生活から見ればなんとも異質で優雅なものに思えるのだろう。
が、本人にとっては長らく重ねてきたごく当たり前の日常。
他者から見て余暇に見える時間もバカンスに見える行動も、全てが一種の労働行為なのである。
今回は特別にその中身を少し披露してみようか…
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僕が手にしているのは「スクリムショー」と呼ばれるマッコウクジラの歯の彫刻品。
カアナパリのホエラーズ・ヴィレッジ・ミュージアムで購入したものだ。
(この博物館のことは第90話で紹介した)
いったん港を出ると2年から4年の歳月となる長期の出稼ぎ労働でもあった19世紀の捕鯨。
その単調にして緊張感を伴う船内生活から生まれたアートともいえるのが、スクリムショーである。
狭い船室で過ごす捕鯨の男たちによって生み出された芸術品は博物館内にも多数展示されており、ミュージアムショップのショーケースにも土産品が幾つか並べられていた。
その中で僕の心をとらえたのは、熟練の絵師が描いたかのごとき精巧な捕鯨図でも祖国で待つ女房か恋人を思い描いた肖像画でもなく、10数行の詩が彫り込まれたシンプルなものだった。
いつ姿を現すかわからないクジラを待つ長い忍耐の時。
獲物を仕留めた興奮に酔った後の就寝前のひと時。
長い帰路の最中に遭遇した生死に関わる嵐の恐怖の時間。
何れのシチュエーションであれ、クジラの歯という限られたスペースに彫り込まれる詩は、凝縮された捕鯨者の心の叫びであり、陸に留まる者たちへのメッセージでもあるはず。
中身は後の楽しみにして、その彫刻品を買うことにした。
トランスアイランドに戻って読んでみると、英語で彫り込まれた詩は捕鯨者の誇りを高らかに詠ったごく平凡なもので、そこに期待していたパーソナルな物語こそなかったが、今日、波の音を聞きながらしみじみ眺めるうちに、僕の中に創作意欲が湧き上がってきた。
仮に自分が捕鯨者であったなら、このアイボリーの塊にどんな詩を彫り込むだろうか、と。
そして、空想の中で19世紀の鯨捕りになった僕は故郷に残した愛する人に向けてこんな詩を詠んでいた…
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
君の暮らす陸から
何千マイル離れて
伝説の鯨を追う
嵐の海に
遭遇の前兆を感じて
精神が高揚し
凪いだ海には
永遠の静寂を見て
心が落ち着く
航海に出たことを
鯨捕りとなったことを
誇りに思いながら
自分の生きる場所は
此処にあらずと
いつもどこかで
考えている
君の元へ帰るのは
何年先になるだろう?
今日も鯨は
姿を現さなかった
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
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捕鯨問題にしても、環境問題にしても、様々な知識を集め、様々な意見を聞き、自身の意見を心の中に集約するのは大切なことである。
が、それだけでは、ヒトは客観的な評論者を脱しきれない。
机上で集めた知識とそこから生まれる推論だけで物事の本質に迫ることには限界があるということだ。
如何なる営みにおいても、当事者の体験とそこから生まれる感情に勝る力は存在せず、主観は常に周囲の客観をリードする。
現代人は、過酷な生活の中にあった鯨捕りの孤独を史実としては理解できても、その奥に眠る個々人のドラマの部分までは到達できない。
そこで作家はささやかな抵抗を試みる。
自ら創作するフィクションの中で、想像力と創造力を駆使して客観を主観に変えんとする。
例えば、遠い過去に遥か遠方の海上に生きたひとりの鯨捕りに自らを投影し、架空の航海へ出ることで、その孤独を自ら追体験しようとするのだ。
そこから見える景色は当初霧の中にあって不確かながら、やがて日常という岸辺から離れるにしたがって視界が晴れるように鮮明に変わる。
やがて、動き始めた物語は風と海流によって遠くへと導かれていく…
作家をそんな空想の旅へと誘う入り口は客観化されたドキュメント上にはない。
今、僕が手にしているこの大きなクジラの歯とそこに彫り込まれた肉圧宿る言葉のみが創作の旅を可能にしてくれるのだ。
僕が天職と感じている、こんな日々の活動を理解してもらえるだろうか?
そして、少しはその旅を共に楽しんでもらえるだろうか?
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。
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