102.ポジティブな隣人
2004.1.27
【連載小説102/260】
隣家に面白い男が越してきた。
僕が暮らすNEヴィレッジは、現在村民51名。
男女比は約6対4。
主に文筆業に携わる人や読書家、出版関連のSOHOワーカーといった人々で構成されている。
「一旅一冊運動」の結果完成した世界中から集まる名著の図書小屋も着実に質量が増え、静かな読書目当てのツーリストも安定して迎えており、文学がテーマの村としては予想以上に知的で洗練されたな空間になっている。
(「一旅一冊運動」の詳細は第55話を)
我が家から30メートル程離れた南隣の小屋は、開拓期からの米国人の持ち主が、本国の家族の病気で離島して以来、半年以上空き家のままだった。
ヘミングウェイが好きな初老の紳士で、文学談義をしたり僕の下手な英語の家庭教師をお願いしたりの仲だったので、いつか島に戻れる日までの家屋メンテナンスを引き受けていたのだが、残念ながら彼が看護のため本国を離れられなくなり、先月正式に離島手続きがとられた。
新しい家主が決まったのは、それから数日も経っていなかったと思う。
たいていの新規移住者は、あちこちの村を訪ねて理想の環境を探し、検討に検討を重ねた上で木製の小屋かドームハウスを建てる。
よって、入植手続きの完了からアイランドライフのスタートまでには、ある程度の時間を重ねるものだが、彼の場合は違った。
初めて島を訪問し、コミッティスタッフに案内されたNEヴィレッジで僕の隣家をひと目見て、すぐにでも転居可能と聞くや否やコミッティハウスに戻って入植と中古住居購入の手続きを即決したと言う。
そして、驚きはそれに留まらなかった。
慌しく済ませた契約にもかかわらず、その翌日、僕が留守の間に隣家入居の挨拶レターを書き残した彼はその後全く姿を見せず、小屋も空き家のままだったのである。
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隣人の名はババ・ディック。
トランスアイランド初のシンガポール人で、1965年生まれの独身。
彼が島に戻って生活を始めたのを知ったのは3日前。
昼時に南から吹く風にのって、エスニックな香りが漂ってきたことによる。
島では珍しい匂いに誘われて訪ねてみると、小屋の前にバーベキューコンロを持ち出してスープや炒めものなど数種の料理を作っている。
「こんにちは。はじめまして…」
と挨拶して、僕が自己紹介をすると
「どうぞ、どうぞ。座って座って。ひとりじゃ食べ切れない量だからご一緒に」
と誘ってくれる。
お言葉に甘えて、アジアン料理を賞味させていただくことにした僕は、ひと口食してあまりの美味に驚いた。
「美味い!」
と、僕が大声をあげると
「でしょ。でしょ。」
と満面の笑顔の彼。
(何でも2回重ねて話すのが彼のコミカルな特徴だ)
が、それも当然だった。
ディックは一流の料理人だったのである。
加えて、巨万の富を築いた経営者でもあった。
その辺りも含めた彼の紹介は、シンガポールという国の解説を交えて進めるのがいいだろう。
シンガポールは1965年にマレーシア連邦から分離独立した国家で、中国系、マレー系、インド系など様々な民族で構成される人口300万人強の赤道直下の島国。
リー・クワンユーというカリスマ的元首が、一代にして資源乏しい小国をアジアを代表する近代国家へと育て上げた。
その奇跡的とも評価される経済発展は、世界銀行発表の購買力ランク世界1位(1998年)や、世界経済フォーラム発表の競争力ランク世界1位(1999年)などのデータに現れ、同じアジアの先進国ながら不況低迷する日本を尻目に躍進を続けている。
で、ディックである。
シンガポール誕生の年に生まれた彼は、10代で料理人となり、崇拝するリー・クワンユーを目標に大きな野心と向上心で国家発展にリンクするかのごとく駆け足のサクセスストーリーを築いてきた男だ。
外食習慣の根付くシンガポールでは、1日3食が外食という家庭も珍しくなく、あちこちに点在する安くて美味しい屋台街が観光客にも人気だが、ディックは小さなローカルフードの屋台を皮切りに独自の食ビジネス展開を重ねてきた。
民族とその信仰により多様な食習慣と食文化が存在する国家的特徴をとらえて様々な屋台店を展開した彼は、そこで育てた優秀な料理人の人脈を活用して、ホテル建設ラッシュ時に高級レストランを展開したり、食材輸入を行う商社を起こしてスケールメリットをいかした合理的な流通インフラを整備したりするなど、食市場におけるビジネスを多面展開させ一大企業グループを築いた。
彼が財界の代表として政権党である人民行動党の顧問職を務めた実績や、世界的に有名な某ホテルのペラナカンレストランのオーナーであることが、そのポジションを雄弁に物語っている。
ちなみに、「ペラナカン」とは中国人とマレー人の混血系の総称で、ディックも中国人を父に、マレー人を母に持つペラナカンである。
彼の名前に付く「ババ」は通称名で、ペラナカン男性を意味する言葉であると聞いた。
そんな彼がトランスアイランドへ移住してきたのは、「自由な第2の人生」のためらしい。
創業者がいつまでもトップに居座るのはよくないと考えて完全引退を決意したと言う。
ひと月姿を見なかったのも無理はない。
その間彼は本国に戻って膨大な量のビジネス引き継ぎと残務処理を行っていたのである。
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「NEヴィレッジは文学がテーマの村だけど、何故ここを選んだの?」
とディックに聞くと、後から知ったと言う。
明確な志向で居住村を選ぶトランス島民の中において、これも異例だ。
何でも直感による即決主義の彼は、あれこれ見ると悩むから、最初にいいと感じた所に住むことに決めて島を案内してもらい、まさに最初の物件である僕の隣家を選んだ。
おまけに、超多忙な半生でろくに本を読むこともできなかったから、これを機に世界一の読書家になろうかな、と真顔で語る。
なんとも行き当たりばったりの発想なのだが、そこが彼の魅力なのだろう。
そう、存在そのものがポジティブで爽やかなのだ。
トランスアイランドにしてみれば異質なキャラクターだが、おおいに刺激になりそうで今後の付き合いが楽しみな隣人だ。
そんな訳ですっかり意気投合して、以降毎日、彼の手料理による昼食談義を重ねているのだが、彼の口からマシンガンのように繰り出される様々なシンガポール話をおおいに楽しんだ僕が、是非にも訪問してみたいと言うと
「いつ行く?いつ行く?」
とディック。
「じゃあ来月か、再来月にでも」
と、勢いで答えた僕ではあるが、既にシンガポール行きを真剣に検討し始めている。
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。