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092.クジラの唄は聞こえるか?

2003.11.18
【連載小説92/260】


クジラになって泳ぐ不思議な夢を見た。

“ラハイナ・ヌーン”以降、クジラに関する様々な文献を読んだり、友人や隣人との議論をあれこれ重ねていたから、僕の潜在意識の中でクジラがかなり大きな部分を占めていたのだろう。

中身そのものが曖昧にて、覚めた後の記憶はさらに漠然としたものだが、概ね以下のような内容の夢だった。

作家である僕が、いつものようにキーボードに向かう。

自ら創作する空想の世界を思い巡らすうちに、意識が眼前のディスプレイを越えて“向こう側”の世界、つまりはデジタルネットワーク空間へとトランスする。

まるで海に潜ったかのような肉体感覚を抱くそこは、「0(ゼロ)」と「1(イチ)」の分子で構成された暖かい電子の海。

僕は薄暗いその空間でクジラへと姿を変え、自由自在に泳いでいる。

ついさっき飛び越えてきたディスプレイの四角い窓明かりは、遠ざかるにつれて水面へと上昇していく水泡のひとつに変わってしまう。

電子の海を泳ぐクジラの僕は、それでも作家のままだ。

「何をしているのか?」と問われれば、「物語を紡いでいる」と答える。

違いがあるとしたら、ペンを握ることも、キーを打つこともなく、ただ思うに身を任せて泳いでいるだけなのに、いつもより濃密に創作活動に没頭している充実感に包まれている。

やがて、呼吸をしたくなって水面へと上昇し、その身が海面へ届いたところで夢から覚めた。

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心理療法分野において興味深いレポートがあった。

前々回で少し触れたヒトとクジラの関係の大きなポイントともいえる「精神性」の部分に関わることなので紹介しておこう。

20世紀後半に、従来の心理療法とは違った「サイコセラピー」と呼ばれる各種の新たな療法が生まれたが、これらの臨床レポートの中にクジラとの同一化体験、つまりは自らがクジラになる心理体験が多数報告されているのである。

サイコセラピーは個人の内面探求を重視する療法で、座禅や呼吸法、ボディワーク等を通じて変性意識状態の中に眠る深層意識を呼び起こすものだ。

ヒトの無意識の諸相内には個人の体験の奥に人類の集合的体験層や地球生命全体の集合的体験層があり、セラピーによりその深い部分に到達する際にクジラとの同一化が起きるのではないかと推測されている。

種の進化の道に対してUターンを行ったクジラを媒介に、ヒトが胎内回帰を行っているという分析もあるようだ。

では、僕の夢もそうであったが、何故それがクジラなのか?

彼らは何故、人類の心にかくも近い所に位置する特殊な存在なのか?

思索のヒントが欲しい時に、ヒントを携えた友人がフラリと立ち寄ってくれるのが、この島のおもしろいところである。

しばらく撮影ロケに出ていた戸田隆二君が来たので、彼の体験とクジラ観を聞いてみることにした。
(戸田君については第82話を)

「クジラの歌を聞いたことがありますか?あれを体験すると誰もがクジラを特別な存在だと思いますよ」

と彼は言う。

クジラの歌とは、彼らがコミュニケーション手段として発する神秘的で、どこか物悲しい音波のことだ。

世界中の海に潜ってきた海洋カメラマンの彼は、様々なクジラの撮影を行ってきたが、海中で何度もクジラの歌を聞いたことがあり、そのたびに不思議なインスピレーションを得たという。

撮影者と被写体との間にある関係性が、他の生命とクジラの場合では全く異なるのだそうだ。

動的な世界の一瞬を次々と切り取っていく海中撮影において、カメラマンはある種、時間の支配者としてそこに存在することができるのだが、相手がクジラの場合だけはそうはいかないらしい。

ゆったりとしたリズムに包まれる彼らに向かう時、両者の主従関係は入れ替わり、撮影者は従順な「報告者」になる。
そして、その感覚は、クジラの歌を聞く際により強くなるというのだ。

その中身が理解不能な歌に感じるのは、幼い頃眠る前に聞いた子守唄に似て不思議な安堵感と無力感。

悠久の時を知り尽くした人類に対する地球レベルでの親たる存在がクジラであり、彼らが過去と現在と未来を行き来して泳ぎながら伝えようとしている大切なメッセージがその歌に託されてきっとあると、戸田君は力説する。

クジラの特殊性が、哺乳類でありながら生活の場を海へと戻したUターン現象であることは、以前にも触れたが、着目すべきは音によるコミュニケーションを忘れず還って行ったということだろう。

つまり、彼らは陸上に残る者たちとの交信手段としての歌をもって、「新たな海」へと進化したという見方も可能なのだ。

そして、彼らの発する歌には、ある種の言霊が宿っているが故に、ヒトはその前で従順かつ純粋になれるのだ。

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いつもより波打ち際に近く、海岸に座ってみる。

そして、海というもうひとつの世界に耳を澄ませてみよう。
あるいは目を閉じてそこに心を解き放ってみよう。

クジラの歌は聞こえるだろうか?

このトランスアイランドでなら、聞こえるような気がする。
いや、彼らの歌に真剣に耳を傾ける必要があって僕らは今ここにいるのだ。

そして、いつになるかは分からないが、明確なヴィジョンを得た時、僕らはこの幸福な島の生活を置いて、それぞれが生まれ育った文明国家へと戻るということなのかもしれない。

そう、進化の過程でひとたび陸に上がりながらも、あえて逆行するかたちで海へと還って行ったクジラたちと同様の道を辿るのだ。

そのとき僕らはクジラのように過去と現在と未来をつなぐメッセンジャーになれるだろうか?

有機的で暖かいコミュニケーション手段をもって、人類の進化に寄与することが可能だろうか?

------ To be continued ------


※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

20年前に執筆した『儚き島』は丸5年間休まず配信した長編ネット小説でした。
260話に及ぶ連載を再度アップする作業は新鮮で、その殆どがこんなことを書いたのか…という驚きのようなものなのですが、この回の内容はリアルに思い出せる脳裏の残像のごときものでした。

締め括りの「有機的で暖かいコミュニケーション手段をもって、人類の進化に寄与することが可能だろうか?」という問いかけは、旅と表現活動を重ねて生きている自分にとってのテーマであり、マイクロソフト社という巨大なIT企業からの声かけで始めた『儚き島』プロジェクトそのもののテーマであったような気がします。

そして、足繁く通っていたハワイの中でも最もお気に入りの場所となったマウイ島ラハイナの海岸で対峙したクジラの存在からインスピレーションを得た僕にとっての地球観のようなもの。

そのラハイナの町が焼失してしまった2023年…

冬を迎えるこの時期。
クジラたちは出産のためにアリューシャン列島から南のハワイを目指し、比較的水深の浅いマウイ島海域で過ごす日々を持ちます。

当然のことながら人工物なき暖かい海は20年前も100年前も、それ以前も変わることなく持続的にクジラたちを迎えてきたリゾートのごとき場所。
そこに対峙するのどかな町ラハイナは20年前も100年前も緩やかに変化しながら存在したのに…

僕たちの文明が何かを失ってしまったことは事実ですが、そこから行うべきは「再建シナリオ」づくりの前に「回帰シナリオ」なのではないかと考えてしまいます。

「無」に近い状況となったラハイナの海岸に立って耳を澄ます時、聞こえてくるクジラの唄にどんなメッセージが含まれているのか?
もう一度、あの町を訪れたいと切に思う今日この頃です。
/江藤誠晃

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