
■PROLOGUE:出港前夜
土地の生命は正義によって永続する
=ハワイ王国紋章より=
<師弟の会話>
「先生、いよいよ明日出航ですが私には未だに本当に今回の布哇(ハワイ)移民送り出しが正しい決断なのか判断できかねる部分があるんです…」
「おや、不安になってきたのかい?」
「いや、私はとうに覚悟を決めてますからいいんですが、真相を何も知らずに船に乗る人たちの人生がこれからどうなるかと思うと…」
「そりゃ、おめえさんが心配するのも無理はねえ。おいらだって正しい決断かと聞かれてそうだとは即答できない。いや、そもそも正しい決断ができねえのが今の日本国だ。そうだろう?ただな、賭けてみてえんだよ。今回のサイオト号と仙太郎、おめえさんにな」
慶応4年5月16日夜。
横浜港に近い宿屋の一室で語り合う師弟の名は勝海舟と嘉納仙太郎。
慶応4年は西暦でいうと1868年。
この年の9月8日に明治に改元したから、この夜は日本史的には明治以前ということになるが、前年の徳川慶喜による大政奉還から年明けの王政復古の大号令を受けて政権は徳川幕府から新政府に移動。
日本がまさに明治維新真っ只中の夜である。
先生と呼ばれる勝海舟は言わずと知れた幕末の政治家。
幕藩体制が互解せんとする中、徳川幕府の海軍奉行や陸軍総裁の重職を歴任して数々の難局で手腕を発揮。
この年の3月には江戸城総攻撃を目論む新政府軍の西郷隆盛と歴史的会談を成功させ、世に言う「江戸無血開城」によって150万人の命を救ったばかりの人物である。
一方の嘉納仙太郎は大坂に近い西宮にある樽廻船問屋の次男坊として生まれた20歳の若者。
1863(文久3)年に幕府が神戸村に設置した海軍操練所を任された勝海舟が近くに開いた私塾「海軍塾」に15歳で入門した。
仙太郎は地元で神童と呼ばれて育った。
10歳すぎから灘の酒を江戸に送り出す定期船に乗り込んで鍛えた巨漢に加えて、学問においても優秀。
西洋史を好んで関連書物を読み漁り、独学で英語も喋れるようになったという文武両道に秀でた男である。
神戸における勝海舟の活動を手助けしていた庄屋の生島四郎太夫のところに出入りしていた仙太郎が海軍塾の噂を聞いて志願したのがふたりの出会いだが、その背景が面白い。
現在の神戸市から西宮市に点在する「灘五郷」は旧くから名門酒造が並ぶ酒造りの町だったが、銘酒の数々が江戸で好まれたため18世紀前半には酒輸送専門の樽廻船問屋が誕生し東西を行き交う商業海路で活躍していた。
仙太郎が生まれた樽廻船問屋も名門酒蔵を本家に持つ分家筋で、酒の生産から輸送までを独占する一族グループの一角で、船乗りと商売人双方の資質を磨くことができたのだ。
1853(嘉永6)年のペリー来航以来、西洋列強の巨大な船が日本各地の港に往来するようになって海運事業者が強い刺激を受けたことは容易に想像できる。
比較的裕福な商家だった嘉納家においても西洋事情を貪欲に吸収すべく、仙太郎の親は様々な書物と学びの機会を息子達に与えた。
そんな中で仙太郎の運命を変えることになった書物が『英米対話捷径』。
ジョン万次郎こと中浜万次郎が1859(安政6)年に発刊した日本最初の英会話教本である。
土佐の漁師の家に生まれ、1841(天保12)年に14歳で漁中に遭難。
アメリカの捕鯨船に助けられハワイを経て米国本土へ渡り、数奇な人生を送り10年後に帰国。
折しも開国の道を模索していた徳川幕府の直参となり海外との交渉事に尽力…
そんな万次郎に憧れていた仙太郎はこの書を手に入れて喜び、肌身離さず熟読した。
そして、仙太郎に勝海舟との運命的な出会いが訪れる。
長き鎖国時代、長崎のみを西洋との窓口としていた徳川幕府は日米通称条約を始めとする五ヵ国条約によって、函館、横浜、新潟、神戸を開港することになる。
その中で海軍操練所設立の地として選ばれたのが仙太郎の地元に近い神戸。
さらに、時の将軍徳川家茂のもとで軍艦奉行職を務める勝海舟が操練所と私塾を開設するというのだから仙太郎にとっては夢のような話である。
おまけに、勝海舟が「新しい日本を担わんとする若者を幕府の人間に限らず、出身地や身分の分けへだてなく全国各地から集める」と宣言したことは画期的であった。
仙太郎は迷うことなく知己の生島四郎太夫を通じて海軍塾に参加志願したのである。
勝海舟に会った仙太郎が開口一番尋ねたのは勝がジョン万次郎と共に米国を訪れた1860(万延元)年の航海について。
この年、2年前に日本とアメリカの間で結ばれた日米修好通商条約の批准書を交換するために遣米使節団が派遣されることになった。
正使が乗船したのはアメリカ軍艦ポーハタン号であったが、海軍増強を目指す徳川幕府は軍艦咸臨丸を随伴船に決定。
日本人操縦の蒸気船による初の太平洋横断を成功させた。
この咸臨丸の提督は当時の軍艦奉行・木村摂津守。
そして、艦長を務めたのが勝海舟、通訳として乗り込んだのがジョン万次郎だったのである。
航海は激しい嵐に遭遇して燃料を使いすぎたポーハタン号がハワイへの寄港を余儀なくされたのに対して、咸臨丸は単独で米国を目指し38日をかけてサンフランシスコに到着。
ハワイ経由となった復路も難なくこなした咸臨丸は幕府の海軍戦略に大きな自信を与えることになった。
勝海舟が異国への航海と米国で見た先進文明の数々を語ると、目を輝かせて聞き入る仙太郎は物怖じせずに次々と質問を投げかける。
その姿を見て、勝海舟は海軍塾への入門を即断了承し、ふたりの師弟関係が始まった。
また、海軍塾の塾頭は土佐を脱藩したあの坂本龍馬であったが、彼もまた仙太郎を気に入って弟のように可愛がった。
ちなみに、残念ながら勝海舟が幕府諸藩の垣根を越えた組織として構想した海軍操練所は反幕の色合い強しとして慶応元年(1865)で閉鎖となってしまう。
しかし、仙太郎は坂本龍馬が翌年に結成した亀山社中に参加して長崎で諸外国相手の貿易事業に関わり、さらに見聞を広めた。
さて、勝海舟から聞いた咸臨丸の航海の中で仙太郎の心を最も強くとらえたのがハワイ王国の存在だった。
一行がサンフランシスコからの帰路に立ち寄った太平洋の真ん中に浮かぶ小さな島国での体験とそこで得た勝海舟の見立ては仙太郎からすれば「ハワイから世界が見える」というべきものだったからである。
咸臨丸が日本への帰途、ホノルルに寄港した1860年はカメハメハ4世の時代。
かのカメハメハ大王がハワイ諸島を統一した1795年からハワイ王朝は4代65年の歴史を重ねていた。
カメハメハ大王のハワイ統一を支えたのは欧米との白檀貿易によって得た利益で購入した最新鋭の武器だったが、この欧米との出会いが皮肉にもその後のハワイ王国悲史の伏線となる。
白檀はまもなく枯渇したが、同時期にアメリカで興隆した捕鯨産業は太平洋上の中継地として最適なハワイに目をつけた。
続々と到来する白人はハワイ古来の伝統や自然をじわじわと破壊し、宣教師の上陸によってキリスト教布教と近代化に加速度がつく。
そして、捕鯨産業が衰退するとサトウキビ産業がとって替わる。
急増するアメリカ本土の砂糖需要に対してプランテーション農業に適したハワイの土地が米国資本に買い占められ、白人による支配力はさらに高まる。
加えて、この間に欧米から持ち込まれた病気によって免疫力をもたないハワイ人は急激に減少していくという悪循環。
気付けば米国人は商業だけでなく次第にハワイ王国の政治にも積極的に参加し、カメハメハ王朝を奉りながらも本国に有利な外交政策を展開する老獪な植民地的政策を進めていたのである。
このような状況下で、時の王であるカメハメハ4世は労働力不足を補うために日本国への移民要請を模索していたが、タイムリーにやってきたのが上記のポーハタン号。
王は日本との修好条約締結を希望する徳川将軍宛の親書を使節に託したのである。
サンフランシスコでこれを受けた咸臨丸は日本への帰途にハワイに寄港することを決め4日間滞在。
木村摂津守と共に勝海舟とジョン万次郎はカメハメハ4世に謁見することとなった。
国王との会は儀礼的に行われたが、これとは別に勝と万次郎はハワイ王朝の要人数名との極秘会合に招かれた。
そして、この密談におけるやりとりが、それから8年の月日を経て明日まさに横浜からハワイに向けて出航する移民船サイオト号へとつながったのである。
ハワイと米国で10年の月日を重ね語学堪能な万次郎と稀代の戦略家・勝海舟は、帰国後も秘密裏にハワイ王朝との書面外交を重ね、2国間の良好な関係構築策として移民制度の確立を目指した。
世界を知るふたりにとって、迫り来る西欧列強への対応策としてハワイ王朝との連携が極めて重要な国策となることは充分に理解できたからである。
そこに登場したのが横浜にいたヴァン・リードというオランダ系アメリカ人貿易商。
サトウキビ産業を牛耳るハワイの白人勢力が求めていた安価な労働力獲得に向けて日本におけるハワイ総領事の役職を得た男である。
彼は徳川幕府と交渉して350人分の旅券を引き出すことに成功すると「温暖な南の島で3年間出稼ぎ労働すれば一儲けして帰国可能」という移民募集を行って予想以上の希望者を集めてしまう。
ところが、大金を払って英国船籍のサイオト号を借り受けて出発準備を進める段階で政権が交代し、新政府は徳川幕府とハワイ政府の間で成立した移民に関する協定を認めず旅券を没収。
ヴァン・リードが求めた新たな旅券の発行を認めない新政府に苛立った彼は150人を乗せたサイオト号を無許可で出航させる強硬手段に出ようとした。
この事態を知った勝海舟は大いに困った。
徳川の幕臣としてカメハメハ王朝の意向を受けてハワイ移民計画を密かに進めてきたものの、今は新政府側にそんなことを知らせることはできない。
かといって、この機会を逃すことは開国後の日本国にとって不利益になるかもしれない。
また、勝の懸念はこのヴァン・リードという男があまり信用できない人物だったことだ。
ハワイ総領事とはいえ、王朝の意を受けた人物ではなく白人勢力にとって都合の良い手先の商売人にすぎず、その目的がサトウキビ産業の利権に絡んでいることは容易に想像できたからである。
仮に移民たちが現地で奴隷のように酷使されることがあったとしても、許可していない新政府が動いてくれない可能性がある。
つまり移民たちは切り捨てられるのだ。
世界との交流を視野に入れて画策した移民政策が徳川幕府の負の遺産となっては元も子もない。
一方で老獪なヴァン・リードは鎖国後間もない新政府に対して国際法的な慣例を盾に取った。
すなわち、国家間の正規の外交交渉によって決定した事項は革命などによる政権交代があっても新たな政府には履行義務があるというのである。
世界を見て学んできた勝海舟からすれば、この主張には一理ありだった。
そこで出航が目前に迫る中、奇策を講じることにした。
正式な許可を得ず出航するサイオト号に密使を送り込み、現地でハワイ王朝との絆を深め、有事には日本国のために動ける体制を築こうとしたのである。
そしてその大役に迷わず選んだのが仙太郎である。
神戸の海軍塾解散後に坂本龍馬の亀山社中に移ったものの、1867(慶応3)年の暮れに龍馬が京都で暗殺された後は表立った活動ができないままでいた。
樽廻船と海軍塾で航海体験を積み、龍馬のもとでは諸外国と貿易を行い英語も解する。
勝海舟にとって彼ほどの適役はなかった。
師匠の申し出を二つ返事で引き受けた仙太郎は短期間に準備を進めた。
その間、師弟はこんな会話も交している。
「先生、ハワイ王国をしっかり観察しておけば日本国の未来を正しい方向へ導くことができるとおっしゃるのは、あの国がメリケンの支配から脱却できるとお考えなんでしょうか?」
「いや、おいらはちょいと難しいんじゃねえかと考えてる。メリケンって国が生まれる前からポルトガルやイスパニア、オランダ、エゲレス…と欧米列強は常に植民地主義で他国を自分の支配下に置く競争を繰り広げてきただろ?あの太平洋に浮かぶ小さな島国がその流れに抗うのは無理ってもんだ」
「では、日本国はハワイ王国の二の舞にならないようにせよと?」
「いや、それも少し違う。あの国を訪れて感じたのはハワイ王朝が金儲けをたくらむメリケン連中の傀儡政権になっちまってるなという現実と同時に、カメハメハって王様とその取り巻きの連中に感じた誇り高さは何としても残さなきゃならねえってことだ。メリケンがいかに強くてもハワイ王国には守らなければならねえ誇りってものがある。日本の皇室と同じようなもんさ。そこを日本国は他人事じゃなく一緒になって考えねえとな」
「ハワイ王国の置かれる立場は場合によっては日本の未来だと考えるわけですね」
「ああ、欧米列強は日本国を征服して植民地にしてやろうか?それとも独立国として認めた上で貿易を通じて関わりあうのが得策か?今は冷静に観察してやがる。こんな時に日本国がどう立ち回るべきかの答は日本に留まってちゃ見えはしねえ。そのために早く移民を送るべきなんだが、新政府の連中はそこが見えてねえから困る」
「そこで明治政府を無視して強引に移民を送ろうとするメリケン側の策にあえて乗ってみるというわけですね。私はハワイ王国に行って何をすればいいんでしょう?」
「龍馬が動かした薩長同盟を思い出してみな。世間はいがみ合ってた薩摩と長州が野合したみたいに思ってるかもしれねえが、実際は違う。この国の未来をなんとかしなきゃならねえって思いが同じだった西郷や大久保、桂が藩を超えて繋がった。つまりは組織や仕組みじゃなくて志を同じくする人とのつながりがこれからの国家をつくる最大の力ってことさ」
「志ですか…。龍馬さんにもよく言われました」
「まずは海を渡ってその目で世界を見ろ。で、おいらが紹介するハワイの人たちに会ってみな。道はそこから自ずと広がっていくさ」
「わかりました。じゃあ私は龍馬さんに習って世界を舞台にハワイ王国と日本国の同盟を作って欧米列強に立ち向かいます」
「おっ、勇ましいね。ただし仙太郎、メリケンが悪者でハワイ王国が日本国の仲間って単純な構図で考えちゃいけねえぜ。メリケンって国だってエゲレスの植民地から自由と平等をうたって独立した立派な国だ。日本にとってためになる米国人はいるだろうからしっかり観察すりゃいい」
「はい。まずは志ある人とのつながりですね。肝に銘じておきます」
「それから、おめえさんは海の向こうでまつりごととは何かを徹底して考えるこった」
「まつりごとですか…、武家出身じゃない私にはちょっと荷が重たい話ですが」
「ばかやろう。徳川幕府が鎖国してる間にダメになったのは、まつりごとを武家がしきってきたからさ。これからは商売人や百姓もみんなまつりごとを考えなきゃならねえ世の中になる。デモクラシーってやつだ」
勝海舟が仙太郎に伝えたかったのは、新しい時代における国家のあり方と人間の生き様である。
世界をその目で見た体験から幕藩体制や士農工商の身分制度そのものを創造的に破壊しなければ日本という国は次なるステージに進むことはできないことを勝は本能的に察知していた。
ゆえに幕臣ながら内に敵を作り、反幕勢力とも付き合いながら何度も蟄居生活の身となるも有事には表舞台に駆り出され、徳川幕府の幕引き役を演じたのである。
そんな勝海舟が樽廻船問屋の次男坊である仙太郎に託したのが日本国とハワイ王国をつなぐ密使の役割だったのである。
横浜港に停泊する英国船籍サイオト号に集まった150名の移民は、その後1924年に禁止されるまでの期間に約20万人を数えた日系ハワイ移民のパイオニアたる集団。
この年が明治元年となったことから後に「元年者」と呼ばれることになった。
しかし、この移民船は明治政府の許可を得ていない言わば「訳あり」の事業であったため、近代化を目指す日本に様々な試練と課題をもたらすことになる。
そして、この移民集団に嘉納仙太郎は忍び込むように加わったのである。
出港前夜、勝海舟と仙太郎が最後に交わしたのはこんな会話である。
「仙太郎、おめえさんは今夜でおいらの海軍塾から卒業だ。はなむけ代わりに新しい名前をつけてやるよ。これからは嘉納丈次と名乗れ」
「“ジョウジ“ですか…、どんな字を書くんでしょうか?」
「仙太郎じゃ廻船問屋のボンのままだ。おめえさんは身体も心も頑丈だから丈夫の丈に次男坊の次で丈次。どうだい?」
「それは面白い!ありがとうございます。先生から新しい名前をもらえるなんて夢のようです。恥じないよう頑張ってきます」
「ちなみに“ジョウジ“ってのはメリケン人の名前にもあるから、あっちでは覚えてもらいやすいはずだぜ。それにメリケンの初代大統領はジョージ・ワシントンといって、こいつは大した人物だ。おいらはまつりごとの何たるかをその書物からおおいに学ばせてもらった。嘉納丈次、いい名前だぜ」
かくして「明治維新の密使 JOJI」が誕生し、激動する明治時代に日本とハワイを行き来しながら文字通り荒波を渡る航海のごとき人生を送ることになる。