121.輪の中に生きる
2004.6.8
【連載小説121/260】
書斎のデスクに置いてある愛用の地球儀。
その台座から上下2本のネジを緩めて球体部分を取り外す。
直径30cmの小さな地球を持って砂浜に出る。
地軸の傾きからも、自転からも解放されたモバイルな地球。
僕はそれを使っておかしな地球観察を行う。
当たり前となった北が上部に位置する地球をさかさまに砂上に置いたり、90度回転させて赤道を縦にして世界を観察してみたりする。
いつもとは違った地球を楽しみながらも、同時に、宇宙には上も下もないから宇宙飛行士や異星人の視線で見ればどれも特別な地球の姿ではない、と冷静に考えたりする。
次に、砂浜に穴を掘って地球の半分を埋めてみる。
紀元前の中国には世界が大きな半球で、これまた大きなドーム状の宇宙に覆われているとの説を唱える天文学者がいたらしいが、その状態で地球が回るという別説をたてた学者はいなかっただろうか?
つまり、空中に露出する時間が昼で砂中に埋もれる時間が夜という発想だ。
少し離れた場所に落ちている椰子の実を太陽だと仮定して地球を回転させる。
すると砂中にもぐる直前に見える椰子の実が日没で、逆回転させて砂中から顔を出した際に見える椰子の実が日の出だという、一風変わった地動説の誕生…
こんなおかしなことを考えるのは、宇宙という大海原に浮かぶ小さな島としての地球を波照間島で実感したからだろうか?
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長旅から戻った後の習慣として、NEビーチの木陰でのんびりとした時間を過ごしている。
本を読んだり、三線をひいたり、隣人と語り合ったり、そして地球儀で遊んだり…である。
今回の大人の修学旅行を経て、僕の中で明らかに変わった感覚がある。
極小の自己と、それを包む大いなる地球との間に生まれる空間的関係性とでもいえばいいだろうか?
それは「3次元の中に生きている」という実感だ。
3次元を意識したというのは、同時に2次元の世界観から脱却したということ。
そして、それを明確に悟らせてくれるのが地球儀なのだ。
少し観念的、哲学的な話になりそうなので、そこを地図と地球儀という次元比較の中に説明していこう。
本来は3次元の球体である地球を平面の2次元に置き換えようとする試みにはどこかに無理が生じてくる。
たとえば代表的なメルカトル図法による世界地図。
赤道付近の実測ベースに南北両極を大きく広げたこの地図においては、北極に近いグリーンランドが南アメリカ大陸より大きく表示されたり、円形に近い南極大陸が巨大大陸のごときに地図低辺を横断したりしている。
こういった一種の虚構としての地図が、長きにわたって重宝されてきた背後にはふたつの要素が見え隠れする。
ひとつめは人間中心主義、いや、文明中心主義だ。
両極が誇張されて表示される地図であっても、中央に集まる文明国家においては地球儀と変わらない距離感を表現できる。
加えて、そこが世界の中心であるという主役意識が根付いていく。
仮にこの地図を北極に住む白クマや南極のペンギンが見たらどうだろう?
自分たちの暮らす陸のあまりの広さに途方に暮れるかもしれないし、狭い陸地に暮らす人類を哀れんでくれるのかもしれない。
もうひとつの要素。
それは距離に対する感覚の麻痺性、とでもいえばいいだろうか。
人類は皆、世界や地球というマクロの存在を知識としては知りながら、日常の感覚は目に見える範囲や属する社会単位というミクロレベルに留まっている。
仮に地球の反対側へ旅するとしても、その距離感を短縮させる航空技術の存在が、双方の間に横たわる長い空間の実態を隠してしまう。
かつて異国とは、山を越え、海を越え、地平線と水平線の彼方に実在の遠距離とそれを制覇する肉体的精神的疲労をもって到達する場所であった。
が、今や、異国へ旅することで手に入れることのできたマクロの世界や地球の実感は、お金を払ってプロセスを短縮することの代償として消えてしまった。
自らや友人が旅してきた先としての異国、もしくは日々テレビで放映される他国の栄華や悲惨の数々。
それらが自らの足のみをもってしては、到底たどり着かない彼方にあることを忘れて、何となく世界というものを知っているかのような錯覚の中に僕らは生きている。
いや、他国ばかりではなく、自らの属する国家でさえ僕らはほんの僅かしか知っていないのだ。
僕や「貴方」は、世界や地球を知っているつもりになっている。
が、一方で、その世界や地球は僕や「貴方」のことを知らない。
このアンバランスの中に生まれるのが人類特有の2次元感覚なのだろう。
が、文明中心主義にしても距離に対する感覚の麻痺にしても、ある意味では無理のないことだ。
今、僕の前に見える椰子の木も、文明に暮らす「貴方」が見上げる高層ビルも、ひとまずは平面としての砂地やアスファルトの街に立っているからだ。
地球はその全域が球面であるというマクロの原則はあっても、人類の日常生活空間は全て平面の上に構成されているというミクロの現実がある。
それ故に、当たり前の日常のみに生きていては見えない世界に対しては、意識してアクセスしなければ到達できない。
遠くへの旅を繰り返すこと。
時に、ひとり地球儀を相手に創造主たる神か宇宙飛行士の視線で地球を観察すること。
それらによって、僕らの中に「3次元の中に生きているという」マクロの感覚は育っていくのだ。
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近くに落ちていた椰子の枯れ葉を裂いて細く長い繊維の紐を作る。
一端を地球儀の上でトランスアイランドの上に置く。
そこをコンパスポイントとして地球儀の上に紐を這わせて波照間島の上にあててみる。
目を瞑ると、お世話になった民宿の奥さんの笑顔が脳裏に浮かぶ。
少しずらして竹富島へ移動させると、三線をひく奈津ちゃんの横顔。
島はそろそろ梅雨明けだろうか?
さらにずらして本州へ。
新たなテーマで山陰へと旅を続けているカメラマンの戸田君の真剣な眼差しを思い出す。
東京の上に紐を移せば、次々に浮かんでくるビジネスパートナーの顔々。
僕の作家生活は彼らとのネットワークなしには成り立たない。
今度は余った長い紐を彼らの向こうへ這わせていく。
日本を超えて中国、インド、中東を経て、アフリカ大陸を貫いたラインは南大西洋を渡り、南米大陸南部をかすめると、広い太平洋を一直線にトランスアイランドへと戻ってくる。
そう、地球上の全ての2点とそこに生きる2人は、一本のラインで結ぶことができるのと同時に、それを延長させることで地球大の輪の中に結ばれて循環する。
僕を基準にすれば、世界各地の友人たちとも、そして「貴方」ともだ。
気付けば、たくさんの友たちとの輪の中に僕は生きている。
ならば、今度はそれらを交差させる中に次なる旅を求めてみたいと思う。
友と作る何本もの輪の集積。
そこには、僕にとってのマクロの地球が3次元のものとして可能だからだ。
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。
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