041.楽園の可能性
2002.11.26
【連載小説41/260】
どこまでも青い空と海。
白砂のビーチに打ち寄せる波の心地良いリズム。
火照った肌を優しく撫でる椰子の木陰に吹く風。
目に映る原色の花々の艶やかさと、たわわに実る果実の濃密な香り…
南国の島を、人が「楽園」と呼ぶ際のイメージとは、概ねそんなところだろうか?
地上最もロマンチストにして、モラトリアムな生き物である人類は、有史以来、その想像力や遊び心で、心理的かつ距離的な「非日常」を遠い南海上に求めてきた。
では、現代人にとっての「楽園願望」はどこから来るのだろう?
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かつての楽園は、「未だ見ぬ時空間への夢」の象徴だったと言ってもいい。
衣食住の充足から領土の拡大に至るまで、人類は拡がり続ける中に自らの存在意義を求め、遠い水平線の彼方や深い山の奥に「楽園」を夢想した。
もちろん、そこに「現実からの逃避」「郷愁」と言う要素も重なってはいたが、基本的な構図として、万民に到達することのできない選ばれし者たちの場所という数的関係性が人類と「楽園」の間にはあった。
で、現代の「楽園」である。
地球上に未知なる地などなくなり、日々、世界各国への旅人たちが空を飛び交う過剰文明の中に「楽園」がかつて持った存在意義は薄れたと言っていい。
(遠い宇宙に目を転じれば、まだまだそこには人智の及ばない「神秘」があるが、宇宙を「楽園」と形容する人はいない。)
悲観的な表現をするならば、南海の「楽園」さえ、空間移動テクノロジーの進歩とツーリズム産業によって、過剰文明のストレス解消装置として北側に取り込まれてしまったというのが20世紀後半のグローバル観光ブームの結果とも言える。
つまり、リアルな現世への不満やストレスは、「楽園」というヴァーチャルな異空間への広き門となり、かつての「非日常」さえも「日常」へと色褪せるということだ。
ならば、21世紀に「楽園」は不可能なのか?
そこで登場したのがトランスアイランドだ。
「この世は苦悩に満ちたもの」とのネガティブな認識の先にある「逃避」や「かつて人は、もっと自由で豊かだった」という一方的な「ノスタルジー」とは違った「楽園」を我々はここで模索しなければならない。
話を僕がこの島に来る前に暮らしていたハワイに戻そう。
「楽園」の存在を「日常」と「非日常」の対比の中にここまで解説してきたが、一方で、世界中からツーリストが集う人工的な楽園ワイキキで僕が学んだことは、その境界線のファジーさだった。
端的に言うならば、訪れる人にとっての「非日常」も、暮らす人にとっては、ありふれた「日常」でしかないというごく当たり前の事実の認識であり、境界などありそうでないという生活感だった。
「人類とは何故かくも分類好きなのか?」
これは、ナタリーから聞いたあるエコロジストの名言だ。
人とその他の生き物を隔て、人類を国境で隔て、自然と文明を隔てる中にエコロジーの目指す「共生」は生まれないというメッセージなのだが、同様のことは人類の時間感覚の中にも言える。
つまり、「日常」と「非日常」を隔てる感覚の中に「逃避」が生まれるのであり、なにごとかを隔てようとする営みそのものも含めて、人は皆それぞれの日常を過ごしているということだ。
そこに南北の楽園的な差異があるとすれば、つまり「非日常」性を感じる部分が何かといえば、結局のところ、青い空と海に囲まれ、心地良い風が吹き、原色の花々が咲き…、という冒頭に記した情操で得るイメージの実感に戻るのであり、その意味では北の文明国に対して、明らかに南は豊かなのだ。
どうだろう?
「陸と海」という分類そのものが既に文明的であって、これに対して波打ち際の柔らかな砂上を歩むという「不確かさ」。
これこそが21世紀的「楽園」の感覚でいいのはないかと僕は考えるのだが…
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「楽園とは、実存する空間ではなく、そこを目指す人の心の中にこそあるものだ」
とは、楽園談義上で使い古されたフレーズだが、あえて今、その「心」の部分に着目するべきなのだろう。
全てを既知のものにせんとする文明の前に、リアルな場としての「不確かな」楽園など不可能に違いないから、人の心の中にこそ「楽園」存続を可能とするヒントはあるはずだ。
例えば今、午後のビーチに座る僕が握る一握の砂。
込める力が甘いとこぼれ、逃すまいと力を強めるとさらにこぼれる…
文明的意味において「手にする」という行為上「不確かな」砂々。
が、それらも自然との共生という意味においては、確かな実感をもって、握る者の心にある。
「心」次第で僕らに「楽園」は可能なのだ。
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。
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