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140.海道を行く

2004.10.19
【連載小説140/260】

トランスアイランドが世界と繋がることで、そこに暮らす僕は自動的に地球大のネットワークに組み込まれている。

これはこの島特有のことではない。
北の民も南の民も、大陸に暮らす人も辺境に暮らす人も、全て同じ条件のもとに存在しているはずだ。

世界がひとつに繋がっているということは、僕が世界と繋がっているということであり、同時に「貴方」が世界と繋がっているということでもある。

故に、前回報告したトランスアイランドのヴィジョンは僕と「貴方」の未来とも直結していることになる。

「世界」とか「島」といったワードを物理的・空間的概念だけで捉えていては21世紀という大海原を渡っていくことは難しいだろう。

人類を包む全ての空間を精神的・理念的なものとして自らの中に取り込むことで未来の水平線は見えてくる。

僕は島に暮らしているから「大海原」とか「水平線」という表現が相応しいような気がして使ったが、「貴方」が大陸の民であるならば「大平原」とか「地平線」に置き換えてもらってもいいだろう。

では、大いなる地球と極小の自己を何でもって繋げば未来は見えてくるのか?

答は「道」だ。

そして、この「道」もまた物理的・空間的な「道」ではなく、精神的・理念的な「道」でなければならない。

心の中に、地球と通じる確かな「道」を想像力と創造力で描いていく営みが、21世紀ネットワーク社会におけるライフワークとなるべきである。

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「海道を行く」

これが僕、真名哲也が我が人生の第2ステージに付けたスローガンでありテーマである。
自身を主人公とする細く長い物語のタイトルだとしてもいい。

ここで「人生の第2ステージ」と記したが、これは前回報告したトランスアイランドの第2ステージを受けてのものである。

が、そこには大きな違いがある。
島の第2ステージが来年度から始まるものであるのに対して、僕の第2ステージは既にスタートしてある程度の時間を重ねているのだ。

具体的にその開始時点を示すなら、2002年の4月1日。
そう、トランスアイランド建国の日である。

当時そう気付いていた訳ではないが、今から振り返ってみれば、南方への放浪を重ねていた僕がトランスプロジェクトと出会い、この小さな島を生活の拠点としたあの時点で僕の人生は新たなステージへと移行していた。

人生というものは瞬間瞬間の「今」という「点」を無数に繋ぐ「線」としての「道」である。
故に、ある地点に立ち止まって過去と未来の双方を見比べる中に「道」は初めてその姿を現す。

トランスアイランドの生活を始めた時点では見えなかった「道」が、2年半強の時間を重ねたことと、この先へのヴィジョンを持ち得たことで今、はっきりと見えてきたということだろう。

で、その道が僕にとっては「海道」なのである。

環太平洋を創作の舞台とする僕の歩む形而上の「道」は、島々を繋ぐ海の道だから「海道」になるのだ。

「カイドウヲユク」と読み上げれば、誰もが司馬遼太郎の『街道をゆく』を思い起こすだろう。
そう、同音異句である。
(もちろん、偉大なる先達の偉業を意識して、それにあやかるべくこのタイトルを自己スローガンとした意図もある)

1971年に連載が始まった『街道をゆく』は、氏が没する1996年度までの4半世紀にわたって続いた一大紀行録である。

僕は、書斎を離れ旅と共にある創作を重ねたこの作品が、氏にとっての晩年におけるステージ移行だったと見ていて、「道」の上で創作を重ねるという意味においては大先達ともいえる芭蕉の世界に通じるライフワークだったとも解釈している。

「旅を人生の住処とする」

僕は常々そんな芭蕉、司馬遼太郎の系譜に連なりたいと望んでいる。
そして、そんなライフスタイル実現においては極めて贅沢な環境にいるとも考えている。

21世紀に生きることで、その行動圏は地球大に広く、入手可能な情報の量と同志との出会いのチャンスは無限に可能だからだ。

僕の第2ステージは、まだプロローグの段階にすぎない。
この『儚き島』連載も4半世紀続くだろうか?

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ひとつに繋がったネットワークとしての地球。

それは今を生きる全ての人が歩む無数の細い「道」が集積することで出来あがる球体なのだろう。

だとすれば、僕の道も貴方の道も60億分の1の極小の存在でしかなく、これを空間的、物理的な「道」として確率論的に見れば出会いのチャンスはゼロに等しい。

ところが、どうだろう?

今この瞬間、僕の連載手記を介して作者の僕と読者の「貴方」の道は交わっている。
そして、次週再び交差するまでの時間、それぞれの道が比較的近い場所を平行して走っているような感覚を共有している。

そう、精神的・理念的「道」は目指す先が同じである限り、互いが地球上のどこにいても繋がること可能なのだ。

そこには60億分の1と60億分の1同士の天文学的な偶然の出会いではなく、1対1の必然的出会いが準備されているといってもいい。

海道を行く僕は常に「孤独感」に包まれている。

が、ここでいう孤独とは寂しさを意味するものではない。
孤高にして独立した人生という航海を重ねる中で得る高揚感のことだ。

そして、自らの歩む道を見出せたが故に、無数に走る友の道を周囲に見ることができる。

「道」を得た「貴方」も同様ではないだろうか?
そう、僕たちは同じ水平線を見据えながら、いつもひとつに繋がっている。

------ To be continued ------


※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

ライターやジャーナリスト的な仕事とプロデューサー業を半々の比率で進めていた当時と比べると、今は殆どがマーケターとプロデューサーの仕事になってしまいましたが…

この回の記述を見ると
「僕」と「貴方」
「世界」と「島」
「水平線」と「地平線」
などの対比とそれらをつなぐ「道」という設定。

その「道」に対しては
「物理的・空間的」と「精神的・理念的」という対比。

さらに一本の道に対しては「瞬間瞬間の点を無数に繋ぐ線」と定義し、「ある地点に立ち止まって過去と未来の双方を見比べる中に道は初めてその姿を現す」とまとめる。

僕がマーケターとして日々制作する企画書が「構造的理解」を可能とするための各種図式であることはビジネスで出会う方々に周知されていると思いますが、振り返って当時のテキストを読むと、その片鱗が見えてきます。

この回で「僕」と「貴方」の出会いを指して
「60億分の1と60億分の1同士の天文学的な偶然の出会いではなく、1対1の必然的出会い」
とまとめたあたりが真名哲也(=自分)らしくていいなと微笑ましく?思います。
/江藤誠晃

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