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119.南の果ての珊瑚の島

2004.5.25
【連載小説119/260】

たとえば、何時間歩き続けてもその先に地平線しか見えない荒野の一本道。

たとえば、目指す上方が霧に包まれ、いつ頂上に到達できるのか予測不可能な山道。

それらが如何に過酷なものであっても、人の切り開いた道である限り、旅人はそこで開拓者のポジションを得ることはできない。

人工の道は、その全てが先人の敷いたレールの上なのだ。

ところがが、海の道は違う。

目指す陸地が同じであっても、遠くに見据える水平線が共通のものであっても、確たる「道」なき海上の旅においては、皆が開拓者気分を味わうことができる。

さらに、その感覚は、その身を委ねる船が小さいほどいい。

船底に置く足に重力以上の力を込める緊張感。

水平線と船を垂直に結ぶラインから外すこと少なき強い視線。

吹きつける風と降りかかる波飛沫に対する無抵抗…

そこにあるのは、太古から変わらぬ孤高にしてどこか無力な冒険者像だ。

と、勇ましい文章で始めた訳からお伝えしよう。

僕たち大人の修学旅行5人組は、昨日波照間島に着いた。

中継地である石垣島の離島桟橋から乗った連絡船は「あんえい号」。
定員12人の小型船が、約60キロ強の海路を轟音と共に波を切り裂きながら1時間足らずで観光客と生活物資を運ぶ。

そして、人と積み荷が降りるや否や帰路の客と荷物を迎え入れて再び石垣島へと、とんぼ返りで船出していくのだ。

この1時間の船旅がなんとも心踊る体験で、僕らは船の轟音に負けまいと大声で語り合いながら上記の冒険者論を展開したのである。

快調にスタートした新たな島への旅の報告を始めよう。

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ひとつの国家を、そこに居ながら最も広く見渡せる場所、若しくは冷静に観察できる場所があるとしたら、それは「隅」や「端」に位置する場所だと思う。

国家というものが発展とともに「集中」へ向かう特性を持つものであることにおいては、その国を最も雄弁に語るのが「中央」の存在であるというのが一般的な見解であろう。
日本なら東京であり、アメリカならニューヨークだろうか…

が、それはマジョリティ側の論理であり、文明の「主観」に属する見方である。

僕が「大きくなり過ぎた島国」を通じて試みているのはマイノリティ側からの考察であり、歴史の「客観」観察だ。

日本という巨大国家の中にあっては、辺境に位置しながらも、脈々と小さな歴史を重ね、幾多の人生を見守ってきた島。
そういった場所からこそ見える日本というものがあると信じている。

その意味において、波照間島という日本の最南端に立つ意味は大きい。
(ちなみに、領土としての日本最南端は先月中国の海洋調査船問題が浮上した沖ノ鳥島で、ここは無人の岩島である)

まずは、北緯24度という立地。

沖縄の那覇からさえ南西に500km離れ、西に220km行けば台湾、そこから南へ400kmでフィリピンだ。
太平洋をまっすぐ東に向かえば、日付変更線を越えた先にハワイ諸島が僅か南に並んで位置する。

つまり、ここは亜熱帯の南国にして、風土的にも文化的にも異質な日本なのだ。

さらに、この島の歴史を追ってみるといい。

波照間島が属する八重山地域は、14~15世紀が中国や日本と貿易を行う有力者の群雄割拠時代。

沖縄本島を統一した琉球王府の支配化に入るのが1500年。

その琉球王府が薩摩藩の支配化に置かれるのが17世紀。

そして、19世紀後半、明治政府成立と同時に琉球王国が日本に組み込まれる…

つまりは、「集中」という近代国家システムに徐々に飲み込まれるかたちで波照間島の歴史は重ねられたということで、逆説的に考えれば、今は日本という国家に属するこの島も、かつては異国であったというポジションから見る結果としての日本というものがあるのだ。

交わされる言葉も、看板やポスターの文字も、テレビのスイッチを入れると流れてくる番組も、全ては「中央」たる東京と誤差の範囲内に納まる。

が一方で、咲く花の色、海の濃さ、夜空の星の数は明らかにマジョリティ側の日本とは掛け離れ、人工的なものに触れさえしなければ、遠い南方の異国空間に佇んでいる感覚を得ることが可能。

国家の前に空間としての島があり、その向こうには暮らす人々の等身大の日常がある…

そんな基本構図は太古から変わらずに続いているはずだし、この先遠い未来に国家という枠組みや、さらにはその概念が大きく変わることになったとしても不変のものであろう。

未だ僅か1日の波照間島滞在ではあるが、今日「日本最南端の碑」を訪れ、その先に広がる海を前にしただけで、僕の中でそんな思いがごく自然に湧いてきた。

「隅」や「端」を意識することで、日本を客観観察することができそうだ。

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さて、「波照間」というなんとも不思議な島名について記しておこう。

一般的に、波照間島は「果てのウルマ」という意味だとされている。
「ウルマ」とは珊瑚礁を意味する言葉で、日本から見れば「南の果ての珊瑚の島」ということになる。

ところが、この島名はインドネシア語系のものではないか?という、もうひとつの語源説が存在し、民族学的論争が繰り返されているらしい。

インドネシアやフィリピン、マレーシア、台湾などのエリアが複雑に絡んだ歴史記録や言語学的分析の中に「沖合の島」という意味が見えてくるそうだ。

実は竹富島の奈津ちゃんの研究は、この辺りにも及んでいる。

いずれ彼女の知識を借りるかたちで謎の真相を紹介する機会もあるだろうが、今回はそんな彼女が「日本最南端の碑」の前で語ったひとことを紹介しておくことにしよう。

「ここは日本の最南端であるのと同時に、ここから遠く連なる東南アジアの最北端なのかもしれませんね…」

そう、波照間島は古の東南アジアの航海者にとっては、「北の果ての珊瑚の島」だったかもしれないのだ。

------ To be continued ------


※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

僕は「隅っこ」や「端っこ」が大好きです。

国でも街でも、どこかの島でも全体を客観的に観察できる場所は「中心」ではなく「辺境」だと思うからです。

波照間島を訪れた20年前の体験は今でも忘れられないことばかり。

特に石垣島から高速船に乗って、海面をバウンドしながら進む船の左右の空間に伴走者のように飛び魚たちが舞っていた模様はまさに「奇跡」でした。
我が人生ではじめて魚類と意思疎通できたように思えたのです。

そしてもうひとつ。
日本にも亜熱帯の空間が存在し、そこから僅かながら南十字星を見たという体験。本当に地球は丸いのだと確信できた旅でした。

旅で自らを世界に放り出す「遠心力」と、その体験を自らの奥底に記憶として封じ込めんとする「求心力」。

僕の創作活動は常にこの「ふたつのチカラ」を拮抗させる営みでした。
/江藤誠晃

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