136.旅人の発想
2004.9.21
【連載小説136/260】
先週末、東京でミスターAと初めて対面した。
この『儚き島』において初登場となるこの人物は「トランス・セブン」のひとりだ。
トランスアイランドの実質的なオーナーともいえる7人の存在については、過去に何回か触れてきたが、既に紹介済みの人物はミスターGとミスターDだけで、その中に日本人が含まれていた事実は今回が初披露になる。
もっとも、これは僕自身がまだ彼らとしか面識がないということでもあるのだが…
(ミスターGとミスターDの紹介はそれぞれ第100話と第112話)
さて、各界で世界レベルの影響力を持つ彼らの詳しいプロフィールはシークレットとされているため、多くを記すことはできない。
ミスターAに関しては、アジア方面に強い人脈を持つ富豪とだけ紹介しておこう。
今回、そのミスターAの元に集まった面々は以下の4名。
シンガポール政府観光局のネオ氏とアリ氏。
トランスアイランド法律エージェントのボブ。
そして僕だ。
会合の目的はビジネスということで僕の専門領域外だから、末席に座っているだけでいいという軽い気持ちで参加した。
ボブからメールで出席要請を受けた際も、ちょうど瀬戸内海への取材後で日本に滞在しているが故のお誘いだろうと考えていた。
ところが、そうではなかった。
僕にとっては、なんとも大きく光栄な話が舞い込んできたのである。
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旅と島の日々をマイペースで重ねる僕と違って、今回集まった面々のビジネスはスピーディーだ。
東京会合に至った経緯を整理しておこう。
先月23日、僕の隣人で母国シンガポールに大きな影響力を持つディックを通じて、同国政府観光局からトランスアイランドに対してひとつの協力依頼があった。
8月に誕生した新政府が重点政策に位置付ける観光産業。
その中で、近年低迷している日本からの観光誘致強化に力を貸してほしいというものだった。
(この依頼を携えてやって来たのがネオ氏とアリ氏。詳細は第132話)
それから僅か半月後の今月7日。
プロジェクトカンパニーの設立が決定したらしい。
おそらくボブが精力的に動いたのだ。
「おそらく」と推測で記すのは、この事実が僕には知らされていなかったからである。
いつものボブであれば、互いが世界のどこにいても即時にメールで知らせてくれるはずのニュースなのだが、今回、彼はあえて僕に内密で事を進めた。
その理由は後で説明するとして、経緯に戻ろう。
ボブはまず、推進組織の枠組みを考えた。
観光ソフト制作の専門会社を設立したいというのがシンガポール政府の意向だったからである。
また、先月、同国の経済開発局が芸術産業強化を目的に「スター・ウォーズ」のジョー・ルーカス率いるルーカスフィルム社とアニメーション制作会社を共同設立したが、同様の組織を立ち上げたいというのがネオ氏とアリ氏の構想だった。
問題は日本側からの資本及び協力の獲得にあった。
以前にシンガポール政府観光局が日本の旅行業界に対して行った働きかけにおいては、いい結果が得られなかったからだ。
(日本におけるシンガポール観光低迷の背景は第132話)
そこでボブは「トランス・セブン」のひとりであり、日本の政財界にも顔の広いミスターAにひとつの提案を行った。
●旅行業界外から出資者を募り、シンガポール政府観光局と合弁会社を設立する。
●シンガポールと東京の両本社体制をとる。
●事業目的を両国間における広義の観光交流とする。
●具体策立案においてトランスコミッティとアドバイザリー契約を行う。
というのがその内容。
ボブの狙いはふたつ。
まずは広義の観光活性化を目的に、旅行業界外の資本を誘導したこと。
日本にとって最初のFTA(自由貿易協定)締結国であるシンガポールは経済市場として魅力的であり、多方面の企業に協力が要請できる。
もうひとつが相互交流というキーワード。
日本政府は今、「YOKOSO!JAPAN」のキャッチフレーズで海外からの観光客誘致に力を入れている。
日本へのインバウンドをも対象とすることでビジネスチャンスが広がることになる。
このボブ案に対してふたつ返事でOKしたミスターAは、僅か2日で自身のポケットマネーと数社からの出資で必要金額を集めたというから、彼の影響力は相当のものである。
では僕にとっての「光栄な話」の報告に移ろう。
会社設立報告に続いて当面の事業展開に議題が移ると、ネオ氏からレポートが配られた。
そして、その内容を読んで驚いた。
その冒頭に、以下の文面が列記してあったからである。
「博物館を訪れるということは、極小の自己を到底かなわぬ歴史の重みの前にさらすことである」(アジア文明博物館)
「動物園には文明から遠く離れて共存する野生界の現在を観察する覗き小窓のごとき機能があったのではないか」(シンガポール動物園)
「今この瞬間、世界のどこかで誰かが一通の手紙を投函している限り、細々と、しかし朽ちることなく継続する遺産として、切手は人類史に対して意味を持ち続ける」(シンガポール切手博物館)
そう、これらのフレーズは、僕が以前にこの『儚き島』に記したものだった。
(第106~108話)
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「これらのテキストが新たな観光市場開拓の大きなヒントになったのです」
とアリ氏が語り始めた。
彼らはディックの薦めで『儚き島』における僕のシンガポール紀行報告を読み、受け入れる側でも送り出す側でもない、旅人視点による観光開発の必要性を感じたという。
シンガポールのように成熟した観光地の将来はリピーター獲得にかかっている。
初回訪問では体験しきれない魅力と可能性を準備することで、2度3度の訪問が実現し、そこから生まれるリピーターの口コミが新たなファーストカマーをも呼び寄せるシナジー効果。
そのために求められるのが、表層的な間口に対する奥行きの開発だ。
そこで、旅する地の奥行きを探ることを本分とする紀行作家をキャスティングし、その着眼や発想と行動をリピーター戦略に活用する手法を採用したという。
つまり、その日僕が呼ばれたのは、シンガポールの対日観光誘致戦略のディレクター役を任せたいという新カンパニーからのオファーのためだったのである。
そして、初回訪問でシンガポールに大きな興味を持ったらしい真名哲也なら必ずやこの計画に乗ってくれるとボブが3氏に約束し、僕を驚かせると同時に断れない状況を演出すべく、この段階まで秘密にしていたという訳だ。
僕の性格を熟知した上でのボブらしい進め方である。
「君の“旅人の発想”に大きな期待を持っているよ」
と、語りながら握手を求めてきたミスターAの笑顔が決め手になった。
僕はその場で申し出を受けることにした。
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。