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空気感の正体は!?
どかっと雪が降ったのは、もう何週間前だったかな。土が見え始め、小さな虫が飛んでいる。春がそこまでやってきてるね、と思わず言いたくなる心地さが続いている1月下旬。
いきなりだけど、僕は自然がっこうに流れる”自由でバラバラ、でもゆるやかにグッと一体感のある空気感”が好きだ。
毎日何をするか、誰とするか、もしくはしないか。子どもたちはいつも何かを決定しながら過ごしている。誰からも強制されることなく自分を生きる。管理や競争、比較と常に隣り合わせで、自由になることが難しい現代社会。だからこそ、この場所だけは自由でしなやかでありたいと思っている。
今日はそんな自由でしなやかさを持つ子たちが過ごす自然がっこうに流れている僕が好きな空気感について少し具体的に書いてみたいと思う。
朝のミーティング(全員参加の集まり)を終えると、子どもたちの1日が始まる。
ようちえんの部屋では、工作をしている数人の幼児。その中で年長男子がダンボール箱を探している。スタッフが用意すると何やら作業を始めた。聞くと「巣箱」を作るらしい。鳥を飼う鳥籠のイメージだ。その巣箱は、ダンボールの中にもう一つ小さな箱があって、そこに折り紙で作られた鳥が鎮座する。そしてそのダンボールを天井から吊り下げる。餌箱には以前作った舟の折り紙が登場。ときどき他の子とおしゃべりしたり、外の様子を見にいったりしながら工作は続く。次はその巣箱に卵が登場。そして小さな小さな折り紙でスタッフにお願いしてめっちゃ小さい鳥を折ってもらう。すると巣箱には親子の鳥が住むようになった。他の子たちもその可愛らしい鳥の親子を見に来ては「かわいい〜」と本物の鳥の雛を見るかのように最大級の賛辞を口にする。そしてその反応を見て、まんざらでもない表情の男子。
という温かい光景が起こっている部屋の外では、雪が少し残る滑り台で遊ぶ幼児数人。雪が階段の隙間に残り、ツルツルして登りにくい。それもまた楽しみだと言わんばかりに大声で笑い盛り上がっている。幼児と小学生をつなぐテラス(廊下)では、幼児と小学生が入り混じってポケモンごっこや忍者ごっこをして遊んでいる。
「たすけてーーー!」
外の滑り台の方から、ようちえんで一番最年少の女の子の声が聞こえた。どうやら雪でツルツルすべって階段が登れないらしい。SOSを聞きつけたポケモンたちが一斉に外に出ていく。「どうした!どうした!」状況を把握した年長ポケモンが「待ってろ」と段差をジャンプして下に降りる。そして滑る階段の下に回り込みSOS女子の後ろを見守る。他のポケモンは上から女子の手を引く。そして最後に来たポケモンは一通り現場を見渡した後、上から手を引くポケモンのフード部分を引っ張って加勢する。まるで大きなカブのように。
無事女の子を登りきらせると、ポケモンたちは颯爽と去っていく。登り切った女子も、また次の遊びへ流れていく。その横をスコップを入れたネコ車を押しながら工事ごっこをしている男子が勢いよく通りすぎる。
小学生の自由な学び舎からは、米津玄師の曲(「さよーならまたいつか!」)をピアノで6年男子が弾く音が響く。そこにかぶさるように小学生男子たちの手作りハンモックで戯れ合う声が混ざり合う。もう一つの小屋では小学生女子2人が福袋に入れるため、オリジナルキャラクターをぬいぐるみにする日課(20体作るらしい)をわいわいとおしゃべりしながら勤しんでいる。
一見するとバラバラな遊びをしている子どもたちが、見えない糸で繋がっているように、関わりを変え、他人の遊びを見て刺激をもらい、影響を与え合っている。そしてどんな場面にも人と人との関係性があり、見えない空気がエネルギーとなって自然がっこう全体を包み込んでいる。僕はそんな空気感がなんとも言えず心地よく、好きなんだと思う。
これまで数十名の卒業生を見送ってきたけど、毎年感じるていることがある。見過ごしてしまいそうな小さな小さな子どもたちの変化や感情の動きや、同じ様に見えて違う繰り返される遊びの中にこそ、本当に記録し、記憶しておくべき大切な「育ち」「学び」があるということ。そして僕たち大人や親は、目の前の子どもとの関係性の中で生まれる空気感から、知らず知らずに、子育てや親子関係、スタッフと子どもとの関係において、むず痒くも希望を持てるエネルギーを子どもたちから受け取っているということ。
と、空気感について書いては見たが、分かりやすいかと振り返ると、「?」が湧いてくる。何気なさすぎることを、分かりやすく書こう、という時点で矛盾があるのかも知れない。
それでもこれを書いてみようと思ったのは、きっと僕が自然がっこうで過ごす毎日をこんな風に見つめていることを、これを読んだ誰かと共有して、そこにはきっと希望があるエネルギーが生まれる、そう思えたからかも知れない。自己満足かも知れないけど、今は書いてみて良かった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。(きっとこの瞬間も見えない誰かから何かエネルギーをもらっているんだろうな)