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[小説]月夜の虹 #4

『今夜はうちでご飯食べない?あきらくんも今夜は早く帰るって言ってるし、たまにはね?』
末娘の薫からLINEが入ったのは、朝8時を回った頃だった。
『わかった。何時に行けばいい?』
と絵文字も愛想もない返事を送ると、森田勲はスマホを机の上に置きタバコに火を付けた。

妻に先立たれてから26年、必死の思いで育てた二人の娘は共に嫁いで行った。薫が結婚して家を出たのは去年の初夏の頃だが、専業主婦だからか週に三日は実家へ顔を出す。独り身になった勲を心配してのことだが、勲はそれが少し不満だった。

26年も家事をしていれば、自分の身の回りのことに苦労はしない。最近は、一人で住むには広い家を掃除することに辟易して、売り払おうかとさえ思っている。ローンもなければ、借金もない。車も乗らないし、贅沢もしない。これといった趣味もない。育児と仕事に尽くした26年。やっと解放されたのだ。

仕事も21歳の頃に立ち上げた会社を成長させ続け、一昨年に会長に就任したお陰で、週に一度顔を出すくらいしかやることもない。そんな中で娘たちが結婚した。ここからは悠々自適な余生を過ごそうと思っていたのだが、心配性で世話焼きの薫が来るもんだから、ろくに旅行にも行けやしない。

仕方なく家でできる趣味でもと、昔取った杵柄で中古のギターを買ったものの、すっかり弾き方を忘れてしまって、すぐに壁の飾りになっていた。

仕方なく、会社にも行かず、娘も来ない三日間は散歩をすることにした。やることがなく始めたことだったが、これが意外と楽しかった。これまで通ったことのない道、入ったことのないお店、知らなかった景色が、どれもこれも新鮮に感じたのだ。

ある日、夜の散歩をしてみようと家を出て京阪膳所駅の方へ向かってみると、これまた街は昼間とは違う顔で楽しかった。ちょうど月もキレイな夜で、お月見をしながらの散歩も風流だとか思いながら、ときめき坂を登っていると、いつもは謎な空き地にキッチンカーがあった。

真っ黒なキッチンカーは少しばかり不気味だったが、とにかく新しいお店を見つけることが喜びになっていた勲は、恐る恐るながらもキッチンカーに立ち寄ることにした。

それ以来、夜の散歩の時にはキッチンカーがあれば立ち寄り、コーヒーを買うことにしている。

そんなことを思い出しながら、インスタントコーヒーを飲み終えて時計を見ても、針はまだ9時を回ったところだった。思い出して机の上のスマホを手にすると、薫から返信が入っていた。

『6時くらいに来て!それまでに準備しとくから』

さて、まだ9時間もある。
外はきっと今日も冷えるのだろうけど、窓から射し入る陽射しは暖かい。
勲は陽射しの中で横になり、先日読み終えた古本屋で買った小説を読むでもなく読みながら、うとうとし始めた。


遠い昔の記憶を思い出しているのか、はたまた夢か、勲は大学にいた頃の自分になっている。

いつもの食堂で音楽サークルの面々と談笑しているだけの光景だけど、そこには亡くなった妻がいた。妻の笑顔を見て『あぁ、これは夢か』と勲は思った。

だけど、夢でもこうして話をしたのは何年ぶりだろうか。勲は娘たちのことを学生の妻に必死になって話していた。妻はそれを嬉しそうに聞いてくれている。話し終えた勲に妻は一言だけ言ってくれた。

「頑張ってくれたんやな。ありがとう」

目が覚めた時、勲は自分が泣いていたことに気付いた。夢の中で妻に会っていたような気はするが、どんな夢だったのかは思い出せない。ただ、泣いていたものの、とても嬉しかった気がする。そして、自分を誇らしく思えた気がした。

いつしか太陽は屋根の上に移動していたようで、勲も陽射しの中にはいなかった。少し冷えた体を起こして、勲はタバコに火を付けた。時計はようやく12時を回っていた。

「とりあえず昼でも食べにいくか」そう一人ごちて、勲は身支度を始めた。

外に出ると、やはり陽射しとは裏腹に冷たい風が吹いている。ただ、空は明るい。今宵は月もキレイに見れそうだ。きっとキッチンカーも出ているだろう。あのキッチンカーはなぜか、月の出ている夜にしか出店していない。理由は知らないし、それが正しいかどうかも分からないが、勲調べでは雨や曇りの晩には見たことがなかったし、新月の夜も見たことはなかった。

家を出た勲は、琵琶湖の方へ向かいそこから浜大津方面へと歩くことにした。駅前の天下ご麺でも食べて、そこからのんびりと歩いて薫のところまで行くという手もある。

そこから薫の住む雄琴までどれだけかかるか分からないが、のんびり歩いても、せいぜい3時間もあれば着くだろう。途中で休憩を挟めば6時前には間に合うはずである。 


正直、体力には自信があった。
足腰も弱っている訳ではなかった。
だが、3時間の距離を歩くのは初めてだった。
舐めていたと言わざるを得ない。
雄琴へ着く頃には、辺りはすっかり日も落ちて暗くなっていた。
なんとか6時には間に合ったが、足が棒のようである。
しかも、薫の家は丘の上でここから歩いて登ると、登り切る頃には足が使い物にならなくなってるだろうと勲は思い、潔く駅前からタクシーを使った。

「いらっしゃい」
「お義父さん、こんばんは。いらっしゃい」
薫の家に着くと、婿の章も帰っていた。
「おぉ、章くんも帰ってたんか。今日はありがとうな」
「いえ、すみません、わざわざウチまで来ていただいて、迎えに行ければよかったんですけど」
「あぁ、そんなん気にせんでえぇよ。こっちも健康のために歩かなあかんしな。ただ、調子乗って歩きすぎたから、ご飯までソファで休ませて」

勲はリビングに入るやいなや、ソファに座り込み、足をさすり出した。もはや足はパンパンで動きそうにない。

「え?お父さん歩いてきたって家から?」
「せやねん。やりすぎた」
「あれ?今タクシー乗って来てませんでした?」
「いや、それは雄琴の駅でな、もうこれ以上ムリや思て」
「はぁ?信じられへん。もう、歳なんやから、そんなことせんといてよ!」

勲は少し小さくなって反省した。
薫が普段から心配するのもムリはないことだった。

少しして、用意された食事をいただき、章との晩酌も楽しんだ。

「お義父さん、明日出勤ちゃうかったら、今日は泊まってくださいね。足も休ませた方がえぇやろうし」
「ありがとう。でも、今日は帰るわ。また次はそのつもりで来るし、帰りは電車で帰るから」
「ほんまに歩けるん?」
薫の眼差しは鋭かったが、薫にマッサージをしてもらったお陰で足の痛みも引き、すっかり歩けるようにはなっていた。

「ほな、ありがとうな。ご馳走様でした」
「いえ、こちらこそ。またいつでも来てください」
「お父さん、家着いたらちゃんとLINEしてや?」
「はい、わかりました。大丈夫や」

薫の家からタクシーに乗り、おごと温泉駅まで向かう道中で、勲は夜空が明るいことに気が付いた。やはり、今夜は満月である。

おごと温泉駅のあるJR湖西線は高架のため、ホームの位置も高い。西にある比叡山麓を背にすると、東側には琵琶湖を一望できるなんとも贅沢なホームである。

しかも、今宵は満月を湖面に映し出し、琵琶湖がキラキラと白く輝いている。
その風景に勲は心が満たされるのを感じていた。

「さぶっ」ただし、比叡山から吹き下ろす風で体は一瞬で冷やされる。仕方なく、勲は風を避けるために階段を三段ほど降りて電車の到着を待つことにした。

膳所駅に着く頃には時刻は11時を回っていた。
確かキッチンカーは、11時までである。もう帰ったかも知れない。
酔い覚ましに温かい飲み物を飲もうと思っていたが、少し薫の家で長居しすぎたようである。

駅を出て、ときめき坂を下ると、まだキッチンカーの姿があったが、窓も閉まっているようだ。

近くまで行くと、キッチンカーの前にはいつもの店員さんがいた。

「あれ?こんばんは、今帰りですか?」
「あぁ、こんばんは。今日はちょっと娘んとこでご飯をよばれて来たんです」
店員さんにもすっかり顔を覚えられてしまったようだ。

ふと見ると店員さんの向こうにも奥さんと思しき女性の姿が見える。誰かと話しているようだ。お客さんだろうか。

勲はなんとなく気になって、そちらに耳を傾けると、どうやら女性のようだが、酔っているのか少し呂律が回っていない感じがした。絡まれているにしては、男の店員さんはのんびり立ち話をしているので、そうではなさそうである。

自分も少し酔っていることを思い出した勲は、なんとなく気まずさを感じ、帰ろうとした。

すると、その時ふいに向こうの女性のお客さんと目が合った。

勲は驚いた。その女性があまりにも美しかったからだ。まるで亡くなった妻のようにも見えた。

驚きを悟られまいと、勲はその場を急いで去ることにした。もしかしたら、店員さんに気を使わせたかも知れないが、その場にいるには余りにも驚いてしまった。声には出なかったが、鼓動が高鳴っていた。

振り返ることもできないまま、勲はそこから家に帰るまでの間も、どうして帰って来たのか覚えてもいなかった。ただ、気付けば窓の外で高く高くのぼる満月を見上げながら、タバコを吸っていた。

「あんな去り方したら店員さんも嫌な気したやろなぁ」そのことは少し引っかかったが、明日にでも謝りに行けば良いだろう。

それよりも、あの女性である。

暗くてちゃんとは分からなかったが、本当に亡くなった妻のように見えた。歳の頃はまだ自分たちよりも若そうだったが、まさかである。この歳になって恋はあるまいが、思い出すとまた心臓が脈打つのが分かる。

どうやら、今夜は寝付けなさそうだ。
そう思った勲は一人でお酒を飲みながら眠くなるのを待つことにした。

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