梅田さんにたずねて
この記事は、地元でカミングアウトして、LGBTの人たちやHIVを持って生活している人たちに寄り添いニーズを代弁できる居宅介護支援事業所をめざした「にじいろ家族」、セクシャルマイノリティやそれ以外のことについてもいろいろ話せる交流の場「ロカボを食べながらHIVを知る会」などを通し、西成―釜ヶ崎で力強く活動していた梅田政宏さんの追悼のため、釜ヶ崎生きづらさ研究会編梅田政宏さん追悼文集『にじいろ 梅田さん これからも共に』寄稿したものです。
… … … … … … … … …
梅田さんの命が不意に失われて、梅田さんといっしょに生きていくことがこれからの私には純粋なこととして表れています。
私が釜ヶ崎界隈に住むようになってだいたい30年たちました。その間に何人か強く記憶に残ったセクシャルマイノリティの方がいらっしゃいます。
若いころにはゲイの友人たちや知り合いがいて(アカーとかが活発だったころ)、女性たちが男の持つ権力について私に教えてくれていた時期でもありましたので、生き方を考え始めるときにかけがえのない経験をいただいていました。
でもそうした私が若い時期の交流は、少しだけあかぬけていると言いますか、キレイといいますか、言語化できている部分の比重が割合と高かったような気がします。釜のセクシャルマイノリティの先輩たちから教わったことは、ズシリとからだの底に落ちて、そのことをどうしたらいいのか、ずっとイメージのままにおきながら、ゆっくりと私の中で言葉を沿わしていくようなものでありつづけました。
府庁前で野営闘争をしていたころ、夕方炊出しが終わってみなひと心地つくというとき、勝利号のそばに腰かけて、印紙の貼られていない白手帳をじーぃっと一心に見つめている労働者がいて、その姿をみた私は、「仕事があったら野宿しないんだ」という反失連のキャッチーなフレーズであり実は少しばかり紋切り型にすぎる知識を言葉で知っていたものの、「なるほど仕事がだいじなんだ」ということを重たく心に留めたことがありました。この先輩は、お酒が入りますと、若めのを狙って男性・女性をあまり問わず、投げキッス、チュー、ハグなどなどモーレツにアタックしてくるので、当時の私はまだハリがありましたから時折狙われていました。鈍感な私であっても、お酒をたくさん飲まないと心のほんとうの形を外に出すことができないのだなと感じました。しかし、先輩が想いを遂げることを結局お酒が邪魔をすることになるのです。
同じころ、釜ヶ崎の労働者たちがなぜかしら「エチオピア」というあだ名で呼んでいた有名(?)な野宿の人がいました。なぜ「エチオピア」と言われていたのかというと、たいへん長身かつ体つきががっしりしている人で、女装をしてらっしゃって、長い髪を括って立てていることが多く、たしか記憶では時に赤い方紅を丸く塗っていたりすることもあったかな、上半身裸で、ベビーカーを押していることがよくあったと思います。そうした姿からなんとなく「アフリカ」を想像させたからかと思います。今となっては女装している人にも、アフリカ系の人たちにも申し訳ない話です。
周りから聞きますと、この長身の女装の方は、「ちょっと前までは現場では職長のような役割をしていて、よう仕事できたんやで」ということでした。ここまで「目覚めてなかったんやけど」ということでした。そう聞くと確かに少し前には寄り場などで男装(?)の働き人らしいようすを見かけていたような気もします。
ある時反失業闘争のデモに参加中にたまたま、この長身の女装の方が道の真ん中で一糸もまとわず大の字になって寝ているところに出会ったことがあります。その時のデモ隊の中にいた労働者たちの反応は「あそこまでいったらしょうがないわ…」というかんじだったと思います。路上死とスレスレの文字通り身体をかけた表し方、ひとりのデモに至るということは、セクシャルマイノリティの方だけに限ることではありません。とはいえ、私には実はとても魅力的に感じられるこの方の存在とどうしたらいいのだろうかということを、デモを続けながらも言葉にならない形で考え始め、今も考えています。
ふりかえって、現在に近い時間を見ますと梅田さんたちが越冬や夏祭りに参加しはじめたあたりから、女装の人たちもデモにいっしょに参加いただけるようになってきた感じがします。そうしたことからも釜ヶ崎の活動の歴史において、梅田さんが新しい時代への入り口を開いていてくれたんだ、ということが言えるかもしれません。
梅田さんと私との出会いについて思い出すことがあります。釜ヶ崎夏祭りの設営でなにやら身のこなしの定まらない人が足場の上で作業をしているなぁと思っていたら、上から落っこちてきて、あわてて受けとめるとその人が梅田さんでした。ヒヤリハットな肉と肉とのぶつかり合い的な出会いでありました。「この方どなたかしら?」と思ったものです。
再び2000年代に話は戻ります。
私は特掃の地域内清掃の指導員として働かせてもらっていました。ある時、センターの東側でいっしょにコースをまわって清掃をしていた労働者たちと休憩をしていました。センターの軒先に泥酔しているのでしょうか、寝ている人がいました。ふと気づくとおそらく野宿の別の労働者が寝ている人のズボンのチャックのあたりに顔を寄せて、めっちゃ吸い上げ始めていました。いっしょに休憩していた人たちも気づきましたが、さしたるハレーションもなく、ボートの予測を書いた新聞などを取り出して読んだりしながら、「もうちょっとやな、がんばれ」「おお、すごいなぁ」みたいな会話で静かに観戦しています。私は特掃の指導員としてこの場合どうすべきか一応考えましたが、特段どうすることもできないとその時は思いましたので、どちらかというと応援する側にまわりました。
そのうちに寝ていた労働者の方がふと目を覚まし、置かれている状況に気づきますと「おまえ、なにしとんねん」と言って、チャックを閉めて立ち去りました。休憩時間も終了の頃合い、リアカーを動かしその場を離れようとするとき、「にいちゃん、がんばれよ」と残された小柄の野宿の労働者が私に声をかけてくれました。「え!?私?」という思いと「そうかやっぱり私だよね」という思いとが重なるものがありましたが、あの時なぜ私に声をかけてくれたのか、あの静かな声とあきらめと希望を含んだ目線とが何を伝えているのか、それを私は今も考えています。
思わず「支援者」的な立場となって仕事をしたりするようにもなりましたが、ずっと「支援」を続けていたのに、セクシャルマイノリティのことについて私が知らないままに失踪してしまった方々もおられます。あとになって、コミュニケーションの行き届かなったところにそのことがあったのだとわかることがあります。私という形がその方々とつながりうるものでなかったから、つながる豊かさやよろこびが生じなかった、心苦しく切れ切れの社会関係の構成にとどまってしまった…そうした後悔と苦しさの中で生き続けているのが今の私です。
そのようなわけで、釜ヶ崎で始まっているセクシャルマイノリティの人たちの活動を知り、いっしょに動いていくことは、長く釜ヶ崎で過ごしちゃっているなかで、ようやくたどりついた峠みたいなかんじで、そこからはこれから歩いていくシモの方へ下っていく遠い道のりが私には見えています。
西成特区構想関係でいろいろ考えたり未熟ながら提案をしたりする中で、ここはやっぱり梅田さんに相談しなくっちゃと思い、少しずつ親しくなりました。にじいろ家族に出かけて行ってシルバニア・ファミリーを横目に話し合ったり、釜ヶ崎支援機構の事務所に来ていただいたりという感じです。
「セクシャルマイノリティの人たちの居場所づくり」みたいな感じに私は不勉強だからとても短絡的に考えていました。「それではアウティングになっちゃうので」と梅田さんからビシッとご指導をいただき、なるほどと納得できたので、東田ろーじの計画などに取り入れていきました。
センター跡地周辺の未来のエリアマネジメントに関する梅田さんと私との話では、意外と梅田さんの発想にシモい方向性が少なくて、「世界に開かれたこれがLGBTQフレンドリーな大阪よみたいなフラグを立てるべきなのよ」という、わりと上から理念と華やかさできたーみたいなところがありました。私としては「ふんふんそうよね」みたいなことしか言えない感じでしたので、「そういうことを言える理念や人脈を持ってるってすごいなぁ」と思いながらも、「現実的な提案の中では、地味にかつ先々に亘って続いていくような仕掛けを組み込めるよう考えを練っていきましょうよ」ということで、私はお誘いしていました。そんな楽しい話し合いも途中のままで、残されてしまいました。
梅田さんとはそんな風に意見の隔たりもあったのですが、肉体的なところから、シモの方がビーンと感じるところから、考えや行動を作っていくところは、似た傾向というかおなじところで動いている感じがあり、その点でとても梅田さんのことを信頼しておりました。
私が運営の一端を担っている釜ヶ崎支援機構は全体としてけっしてセクシャルマイノリティについて理解のある団体とはいえません。とはいえ、かつての釜ヶ崎の先輩たちのようになかば隠れなかば現れながら、セクシャルマイノリティの人たちが働いています。特別清掃に登録している人、シェルター利用者、支援機構とつながっている人たちの中にセクシャルマイノリティの方がいます。支援機構の未成熟なことについて、梅田さんはものすごくお怒りになったこともきっとあっただろうと思うのですが、私に会いに来ていただいてLGBT情報共有会をご提案いただいた時のありがたさ、なれあわなさ、梅田さんの孤独について、今私は考え続けています。
そのようなわけで、もうしばらくは私の中で梅田さんは生きていて、いろいろ相談することもあるのかなと思っている次第です。